比較優位

大学の頃、経済学か貿易論の授業で、「比較優位」という概念を学んだ時、「画期的な考え方だなー!」と感動しました。

簡単に言うと、「各自、“自分の能力の中で、比較的、得意なこと”に専念して、みんなで分業するのがいいですよ」ということですね。

当たり前っちゃ当たり前です。自分の必要なモノを全部自分で作る自給自足より、各自が得意な仕事ひとつに専念して、他のものはお金で買う方が合理的です。

国も同じで、農業国は農産物を、工業国は工業品を作り、貿易で交換すればいいということです。その方が全体として「効率的」ですよ、と。


他にも環境問題で、二酸化炭素の「排出権」という概念が生まれました。

「空気を汚す国や企業」は、「きれいな空気を作ってくれる木々」を確保しろ、という話なので、工場や都市の周りに森林地帯を作れば理想的なのですが、実際にはそうはなりません。

工場や都市の多い国は、「お金をだして」森林を確保する。たとえば、日本は、アマゾンの森林が出す酸素を「権利として買う」ことになります。

これも比較優位の方法論ですよね。工場や都市生活をする国と、そのための「酸素を出す森」を持つ国の分業であり、お互い得意な方に注力して、交換しましょうって話です。


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ちょっと話は変わりますが、「反グローバリゼーション」という言葉をよく聞くようになりました。サミットやダボス会議の開催地に現れてデモをする団体が、「アンチ・グローバリゼーション」を唱えています。

この言葉を作った人って、すごくセンスがある!と思うちきりんです。


「反」=「アンチ」という接頭語は、何にでもつけられる言葉ではありません。例えば、「アンチ巨人」っていうけど、「アンチロッテ」とは言わないでしょ。「アンチおかっぱ」とか「反おでん」も変ですよね。

これは、「アンチ」や「反」は、「価値観を含む言葉」の前に付けるべき接頭語だからです。なんらかの「価値観」が提示されて、それに「反対!」って意味なんです。

だから「現象名」など単なる名詞の前につけると、落ち着きません。「少子高齢化」とは言うけど、「反少子高齢化」は変でしょ。「アンチ温暖化」も変です。これは、少子高齢化も温暖化も価値観を含まない言葉だからです。


そして、「グローバリゼーション」という言葉も、もともとは価値観など含まない、社会現象名だったと思います。でもある時、誰かがこの言葉に「反」を付け始めました。

この言葉に「反」をつけた人は、「グローバリゼーション」という言葉に「価値観が含まれている」ことを見抜いて明確化したのです。


さて、なぜこんな話に飛んだかと言うと、「アンチ・グローバリゼーション」という概念は、「反比較優位論」なんだと思ったからです。

「それぞれが得意なことに専念しましょう」というのは、一見合理的ですが、それは「全体としての合理性」にすぎません。極端に言えば、なんでも手に入る国の人たちが、他国に向かって、「あんたは鉄鉱石だけ掘ってればいい」とか「キャベツだけ作っとれ」と命じている、そういう感じがします。

これって超傲慢ですよね。突き詰めれば、「付加価値の低い仕事は貧乏な国でやってくれ」って考え方なんです。

で、それに対して「いやだ!」と言いだした人がいる。「ちょっとくらい効率悪くたって、俺たちだって好きなことしたい!」と言い出した人たちがいる。それがアンチ・グローバリズムの本質じゃないかと思うのです。


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今までの経済や政治の前提は、「いかに全体としての富を増やすか」が目的であり、そのための方法を考えるものでした。

でも「反グローバリズム」を唱える人たちは、この「価値の最大化」という目標自体を否定しています。「たとえ経済が発展しなくても、個々人が、もっと人間らしく生きられるべきだ」と主張するのです。


ところが、ここにひとつ、皮肉なことが起こっています。というのは、こういうことを言い出すのは、現時点での経済成長の恩恵を受けている側の人だということです。

今の段階で経済成長の恩恵を受けていない国の人が切実に望んでいることは、「人間らしい生活」などではなく「より経済的に豊かな生活」なんです。というか、そのふたつは同一の意味なんです。

というわけで、サミットやダボス会議の会場周りで、「アンチ・グローバリズム!」、「経済成長より人間らしい豊かな生活を!」と唱える人たちは、すでに十分に経済成長の恩恵を受けてきた人たちだということ。ここがこの問題の限界だよねと思います。


ではまた明日。