石原都知事の肝いりで設立された新銀行東京。
予想通りずうっと大赤字なんだけど、その累積債務解消のため更に 400億円の税金を投入するという。これ、都民の多くが「もうそんな銀行、早めに潰した方がいーんでないの?」と感じてるよね。
だってそこまでして、銀行だらけの東京にこんなしょぼい銀行を残す必要がある? しかもみんな、どうせ今回の 400億円だけでは済まないとわかってる。
最終的には 1000億円以上をドブに捨てることになるかも。
これにたいして怒っている都民はたくさんいる。
けど、そういう人達が働いている日本企業の多くも、たいてい同じような判断をしてる。
どう考えても見込みがない事業にたいして、なんとかテコ入れし、中途半端にリストラしながら事業をなんとか継続しようと努力する。
(旧)カネボウも、会社が崩壊するその時まで粉飾決算を続け、紡績事業を手放さなかった。
“企業全体が倒産するほうが、特定の事業から撤退するよりマシである”とでも考えてるかのようでしょ。
戦争の時の判断もそうだったのかも。国が滅びそうにならないと降伏しない。
西欧の企業は全くちがいます。
たとえばイギリスの“Boots”という雑貨・ドラッグストア、10年くらい前に日本に進出してきましたが、2年くらいで撤退しました。
カルフールも 3年目くらいで撤退の方向を決めています(実際の売却までは 5年)。
米系の金融機関でも、赤字が数年続くと「部門ごとクローズする」のはよくある話。
日本企業と欧米企業では、この“引き際のタイミング”が大きく違う。
さらにいえば“撤退をとにかく避ける”という傾向は個人も全く同じです。
跡継ぎもいない零細企業の経営者でも、会社を誰かに売るなどとは考えもしない。文字通り“倒れるまで”自分で経営する。
夫婦関係においても、「だめだ・・」と思ったら躊躇せず離婚する欧米と、
「まずは修復しよう」とし、それでだめでも「本当に我慢できないか、もう少し様子をみてみよう」とか言い、くわえて「何年間か冷却時間をおいて」離婚する日本。
仕事選びでも同じですね。
「この仕事じゃないよ、オレの人生の時間を投資すべきは」と思えば、入社一年後でもすぐに転職する欧米にたいして、「石の上にも 3年」の日本。
私はこの理由のために、日本人には投資が向いていないのでは?と思います。
私の周りで投資している人の多くが、「いつ売ればいいのか」を知りません。
「買う決断」はできるけれど「売る決断」ができないので、損を引きずったままひたすらに待つ人が多い。
だから日本では貯金や保険が(投資より)人気があるのかも。
だって貯金なら(投資とちがって)「撤退」のタイミングを考える必要がないから。
とにかく日本の組織や人って、ほんと“EXIT”ができず、引き際のタイミングが常に遅い。
★★★
なぜこんなに“EXIT”、もしくは“撤退”ができないのか。
企業に関して言えば“解雇”の法的困難さが理由のひとつでしょう。部門や工場をクローズすると、働く人の処遇に困るから撤退が遅れる。
あと、契約概念が希薄ってのもある。
欧米なら工場進出にあたって自治体から優遇措置を受けても、契約書に撤退条件も明記してある。
でも日本では企業城下町の企業と自治体は運命共同体で、工場撤退は“仁義問題”になっちゃう。
その他にも、日本の組織・個人が“撤退が苦手”な理由があります。
(1)リーダーさえ変化を望まない
赤字続きでも思考を止め、惰性に身を委ねて昨日と同じことを今日も淡々と進める。これってとてもラクなんだよね。
何かを変えるには多大なエネルギーが必要で、誰かが泥をかぶらないと大きな変化は起こせない。
世界ではこの「泥をかぶってでも、変化を起こす人」をリーダーと呼ぶわけで、企業においてはトップ経営者がその役目を果たします。
工場ひとつ閉めるだけでも、経営者の仕事はものすごく増えるし、ましてや事業部門をクローズするのは、気が遠くなるほど大変。
高齢になってから“社長の順番がようやく回ってきた経営者”にしてみれば、そんなことには手を付けたくないのが本音。
だけど欧米では、「ものすごく大変だが、企業価値を上げる仕事を遂行すること」の対価として経営者報酬は支払われてる。だから、「大変だからやりたくない」では済まない。
株主も「変化は嫌い」などという経営者を許さない。そういうガバナンスが効いている。
実際のところ、昨日と同じことをやり続けるだけなら企業には経営者はいりません。
しかし日本には“大きなことは何も決めない”経営者が存在し、株主もそれを許してしまい、その代わり経営者報酬もたいして大きくありません。
つきつめていえば「リーダーとは何する人ぞ」という概念が違うのでしょう。
欧米では「変化させる人」こそリーダーですが、日本では「できるだけ混乱を起こさないこと」がトップの責務。
だからリーダーまでがやたらとソフトランディングを選びたがる。
(2)止めることを問題視する道徳観
大半の学生は就職の時、「会った人がいい人だった」みたいなほとんど意味のない理由で会社を選びます。
。
そんな適当な理由で入った会社なのに、辞めるとなるとやたらと悩む。
「こんなに早く辞めたくなるなんて、自分の頑張りが足りないのではないか?」と考える人までいます。
でも本来、生まれて初めて選んだ仕事が、自分の人生を賭けたい仕事であった、などという“運命の出会い”は、起らないのが普通です。
そうじゃなく、年齢や経験に応じて仕事を変えながら「これだ!」と思える仕事に辿りあえばいい。いくつか経験することで、だんだんと自分のことも、やりたいこともわかってくるんだから。
なのにこの国には、く「たとえ適当に始めたことでも、簡単に辞めてはいけない!」という道徳観があります。
周囲もやたらと“速断すべきでない”というプレッシャーをかけます。
辞めること(止めること)は「逃げ」とか「根性がない」とか言われ、続けることに、止めることより高い道徳的価値が置かれてる。
(3)“終わり”に情緒的な意味を持たせる美意識がある
「有終の美」や「散り際の美学」という言葉が象徴してるように、日本には「終わりに美しさを求める」傾向があります。
この“美しい”という概念がまた意味深なのですが、だいたいのところでは「たとえ負けても、やせ我慢する」ことが“美”と捉えられています。
武士は食わねど高楊枝、的な美しさ。負けるくらいなら皆で腹切りする美しさ・・・
これが日本文化だというなら、それはそれでいいです。
しかし経済、経営、投資などの分野には、全く向かない考えです。
Exit戦略
という言葉があります。
欧米の企業にとって終わり方は「戦略」です。
「ここぞ」というタイミングで「これしかない」という終わり方を、積極的かつ主体的に選ぶ。そのため常に「どう終わるべきか」を考えています。
それは一定の基準にそって、きちんと決断される「ビジネスとしての終わり方」であって、美しくて郷愁に溢れた映画のエンディングとは異なります。
一方、日本人の多くにとって“最後”とは特別な“涙と感傷の幕引き”であって、そこに「美」の概念さえ求められます。
しかし、そうやって「美しい終わり方を求めて、合理的な撤退の判断を避けに避けたあげくに、仕方なく一つだけ残った選択肢の形で終わるその終わり方」は、本当に美しいものでしょうか?
主体的に終わりを選ばないことで、結局は“無残で無念な敗退”を迫られているのでは?
この「終わり」に合理的な意味以外の何か、「非経済的な、精神的な重要性」を求める考え方は、とにもかくにも「ビジネス」の世界には向いていないと思います。