“マス”という呪縛

最近ちきりんにとって、“おもしろいじゃん”“これは読む価値あるかも”と思える、まあいえば“一番質が高いと思える雑誌”は、市販品ではない会員誌だ。ちきりんのとこには毎月3冊、うち2つはクレジットカードのゴールド会員向けの雑誌、もうひとつはマイレージ会員向けの雑誌が送られてくる。この3種の雑誌が、正直いって街で売られているどの雑誌よりもおもしろい。扱う内容の多様さ、深さ、等々。比べものにならない。

これらの雑誌がユニークな点がもうひとつある。それは執筆陣だ。これらの雑誌の大半の執筆者はいわゆる物書きではない。文筆業ではない人が書いている雑誌なのだ。多くのページが科学者、役者、スポーツ選手、宗教家、企業家、起業家、芸術家、学者、活動家、その他その他。小説家が書く場合も小説以外のものを書く、という意味で、いわゆる「書くことがプロ」の人の作品ではないページが多くを占めている。

つまり、これらの雑誌では「編集者」はいるが、いわゆるライターはほとんど活躍していない。そんな雑誌が一番おもしろく、質が高いという皮肉な状況になっている。

★★★

彼らの寄稿する文章のおもしろさの源泉は、まずは、結局どの分野であれ、一定の深さまで到達した人というのは“洞察力”のレベルが違う、というのがひとつ。付け焼き刃的な浅薄な見方ではないから畑違いでも感心させられる。

もうひとつは、一流の人というのは自分たちを客観視する余裕がある、ということだ。たとえばとある高名な科学者の方が書いていたお話。「仮説をたてて証明する。大半の場合、仮説は証明できない。そういう時たいていは仮説が間違っており、ごくまれに証明方法に問題がある。しかし、大半の科学者はまずは「証明方法に問題があったのだ」と思う。自分の仮説が間違っているのではないか?と考える科学者は非常に少ない。これが科学の進歩に時間がかかる最大の理由である。」と書いている。

こんなこと科学者以外の人が書いたら袋だたきにあいそうだ。すでに一定の実績を上げている科学者の方が書くから説得力をもつ。なるほど自分もあの人のような実績をあげたければ、アホな仮説にとらわれて時間を無駄にするのをやめればいいのだ!とわかるわけだ。

そしてそれは科学者だけの話ではない。ビジネスでも同じコトは日常茶飯事で起こっている。間違った自分のアイデア固執し、貴重な時間や資源を無駄にするビジネスマンは山ほどいる。自分が例外だなどという気もさらさらない。

“できる人ってのは何が違うのか”、非常に明確にわかる。

こういうコンテンツが、非売品で、ライターがほとんど関与しない特殊な雑誌に満載であり、どれもこれも非常に含蓄に富んでいるのだ。

★★★

この「売られていない、(書くと言うことの)プロが書いていない」雑誌が、ここまで質が高い、ということは、“市場原理の敗北”であるとも言える。

本来であれば、市場の中で一定の価値のあるものが生き残り、価値のないものが消えていくはず。しかし実際にはこういった“質”を追求したもののほうが、市場の中では駆逐されてしまう。いろいろ批判はあるが、やっぱりCMではなく税金で成り立つNHKの方が質の高い番組を作ることができているのも然りである。

最近の乱発行される様々な書籍を思い浮かべて欲しい。800円だの1200円だのの対価をとって売られる本のあのクオリティ・・・

一方、もちろん会員誌は無料で配られているがコストはそれなりにかかっているだろう。しかし、価格や売上げの洗礼(市場からのフィードバック)を全く受けない雑誌が、あれだけの価値を保てるのはなぜなのか?


この国のマスコミ、ジャーナリズムの分野においては、市場は機能していない。少なくとも、“質の確保”という面で、市場機能は崩壊している。

★★★

新聞に広告がたくさん載ってるでしょ?あれ、結構高いのです。全国版でちょっとした大きさの長方形の広告。掲載費は日経新聞で200万円くらい。同じ大きさで、読売新聞だと500万円以上になります。(年間通して枠を買うと大幅ディスカウントなどもあり、実際の価格は広告主により異なります。)

この「読売新聞の方が、広告掲載費が日経新聞より2倍以上高い」というのはなぜか、わかりますよね。公称販売部数が2倍以上だからです。今でも1000万部だと言ってるんだっけ?日経はせいぜい400万部でしょ。

ところがね、たとえば経済関連書籍の広告を出すなら、どちらに出したいですか?当然日経に出したいよね。日経新聞読まないのに経済本買う人は少ないですよね。

もう一歩進めて「クルーズ旅行」の広告、どっちに出したいですか?こういうの行くのって、“大企業”を定年退職した人でしょ。定年前は確実に日経を読んでいる。60で引退したらいきなり読売を読むと思います??

もーっといえば、どっちの読者の平均年収や資産額が多いと思います?金融機関だったら、大型テレビの広告だったら、どっちに広告を出す価値があると思うか。

って考えるとね、“市場”には、日経新聞に広告出す方が価値がある、と思う人もたくさん存在するはず、だと思う。ところが、広告料はそうではない。公称の販売部数にほぼ比例して設定されている。


笑えますよね。“広告価値は低く、でも広告料は高い”一般紙に広告だそうって思うの誰さ?って感じ。当然、広告営業は非常に苦しくなっています。

それでも、「部数と広告料を相関させる」この業界の慣行は一切変わらない。

これは雑誌でも(少しはましだが)あまり変わらない。「少数のお金持ちが読んでいる雑誌」より「販売冊数が多い雑誌」の方が広告掲載料が高くなっている。
テレビの視聴率も同じです。



日本全国に「まったく同じような人しかいない時代」に作られた、「“マス”への浸透度合いに応じて広告料を決める」という“ゆがめられた市場原理”が未だに残っている。

今の時代、求めるモノは年代、世代、性別、職業、価値観、経済力、趣味等に応じて圧倒的に多様化している。「一定のセグメントにどれだけ絞り込めており」「その特定のセグメントでどれくらい浸透しているか」ということの方が「マスに何万部売れているか」より広告価値を左右するはずなのに、そうはなっていない。未だに「マスの何万人が読んでいるか」で決まっていく広告料。



市場は極めて正直だ。
たとえば100人の読者がいる。様々な面で彼らは多様であり、20人は経済に関心があり、10名は文化に関心があり、5名は宗教世界に関心があり、2人は・・・とする。しかし、100名とも美味しいモノを食べるのは好きだし、老後は不安だし、かわいい女優さんやかっこいい男優さんが好きである。そういう“あたりまえの共通項”もある。

どうなるか。上記に書いた“ゆがんだ市場原理”のために、メディアは“マスとしての数”だけが重要であるため、どのメディアも経済、文化、宗教などについて深堀りはしない。だって人数の絶対値が少ないもの。しかし「グルメ情報」や「アイドル歌手」や「年金問題」をとりあげておけば、とりあえず数は一番たくさんをカバーできる。このためにすべてのテレビ番組や雑誌がそーなってしまう・・・


悲惨

ってかんじ。

★★★

私たち日本人は、いつ、この“マス”という幻想、“マス”という虚構、“マス”という呪縛から解放される日が来るのか?




多くの人がネットってすごい、と言う。
ちきりんも、この虚構をぶっこわせるのはネットであろうし、ネットしかないと思ってる。しかしながら、こんなにも激流のように早く変化しているように見えるネットでさえ、この“マス”の幻想をぶちこわすのに10年もの年月が必要だというのだろうか。
どんだけ強固な虚構であり、既得権益やねんと。


ちきりんは可能性は信じてる。だけど、ゴールはまだまだだ、という気もしている。結局のとこ、ホリエモンは失脚したが、なべつねはまだまだ元気である。楽天だって、一生TBSをものにできない。



笑っちゃう。

そんじゃあね。