同じテーマについて話しているようで、実は全く違う領域について意見を交わしている=「かみあわない議論」ってよくありますよね。
たとえば、
Aさん 「何回も契約更新を繰り返し、同じ職場で 5年も働いているのに正社員になれず、有給休暇もボーナスもない。そんな立場に置かれている人がいるのはおかしい。非正規雇用契約なんて禁止すべきだ!」
Bさん 「でも、全員が全員、正社員になりたいわけでもないんです。契約社員として自由な時間だけ働きたい人もたくさんいるんですよ。働き方の多様性だって確保する必要があります」
テレビ討論などでもよく聞く問答ですが、Bさんの発言はAさんへの反論として成立していません。
Bさんは“でも”で話し始めているので、Aさんの意見への反論を言う必要があります。
が、Bさんが“でも”に続けて話していることは「Aさんが話しているのとは、違う部分の話題」です。
Aさんの発言をステップごとに分けて理解すると下記です。
(1) 世の中には契約社員などの非正規社員と、正社員がいる。
↓
(2) 契約社員、非正規社員の中には、自分で望んでそうしている人と、本当は正社員として働きたいのに仕方なく非正規で働いている人がいる。
↓
(3) 正社員を望んでいる非正規の人の中には、何回も契約を繰り返し、長期間同じ会社で働いている人がいる。
↓
(4) その中には不公正な労働条件を強いられている人がいる。これは間違ったこと、不当なことである。
これがAさんの主張です。
一方のBさんの発言は上記の (2) と全く同じです。
「非正規雇用のうち、望んで非正規社員という立場を選んでいる人と、望まずして非正規雇用の人がいる」ことは、Aさんの発言の前提に存在しています。
その前提に基づき、Aさんは、「望んでいるのに正社員になれない人の問題」を取り上げています。
ところがBさんは話を元に戻し、「望んで非正規雇用の人もいる」と言っています。
これは、Aさんが自分の主張の前提としている論理の一部をリピートしているに過ぎません。
それをあたかも有効な反論であるかのように“でも”でつなぐのは文章として正しくありません。
図示するとこんな感じです↓
Aさんが話している地点からずっと遡ったところにある、前提の一部に話を戻すのは変でしょ?
しかも前提の一部なんだから相反する話ではないのに、“でも”でつなぐのも変です。
★★★
もうひとつ、不毛な議論の例を見てみましょう。
Aさん「学歴なんてぜんぜん重要じゃないよ。」
Bさん「いや〜、現実にはやっぱり学歴は大事だよ。」
Cさん「学歴なんて全然意味ないよ!」
これは議論自体が成り立っていない例です。
「大事か大事でないか」「重要か重要でないか」というのは、ある要素 (x) が、何かの結果 (y) に大きな影響を与えているかどうか、という話です。
(x) によって (y) が決まってしまうなら“重要”“大事”と呼べます。
ということは、(y) が何か? によって結論は変わって来ます。
ここでは (x) は「学歴」ですが、(y) が「年収」なのか「体重」なのかで話は違ってきます。
なので (y)が何なのか定義せずに話し合っていても結論はでません。
(y) を明確にすればこんな議論は簡単に答えが出ます。
「学歴によって年収が影響を受ける」と言いたいならデータを収集して検証することが可能ですから。
高卒と大卒の給与平均は統計データがありそうだし、東京大学卒業生と慶応大学卒業生のデータなんかもあるのでは?
データがあれば、「俺はこう思う」「そうは思わない!」という水掛け議論をしなくてすみます。
もちろん「体重」との関係だって一定規模の調査をすればデータで検証できます。
なにかが「重要だ」「いや重要じゃない」という議論をしたいなら、
まずは「何の結果にたいして、どの要素が重要だと主張しているのか」という (y) を明確にしないと、議論自体が意味をなしません。
そして多くのケースで、 (y) を明確にすると「検証可能性」が高くなります。
そうすると議論が水掛け論ではなくなります。
きちんとデータに基づいて議論しようという話になり、議論は結論に向けて進み始めます。
などと書くと、「じゃあ、(y) は“幸せ度”だ!」とか「(y) は人生の成功度だ!」とか言う人がいるんですが・・・それでは全然明確になってません。
大事なのは (y) を明確にすることです。
そういう議論をしたいなら、まずは「幸せ度ってなに?」というのを定義しましょう。
★★★
最後の不毛な議論例は、結論に関係ないことにこだわる人です。
Aさん「この前、買うって決めた商品、Aデパートで買うと 2000円、Bスーパーで買うと 980円だったよ。だからスーパーで買おうよ!」
Bさん「えっちがうよ。間違ってるよ。デパートで買うと 2100円だよ!」
Cさん「おまえら、なんも知らねーんだな。デパートは今 1800円になってんだよ。ちゃんと勉強してからモノ言えよな」
Bさん「なに言ってんだよ。オレは昨日見てきたんだぜ。正確な知識なしに議論するのは勘弁してくれ」
Cさん「だったらちゃんと調査してから決めようぜ!」
Aさんの主張は「スーパーで買おう」ということです。前段の文章はその理由に過ぎません。
Bさんの意見が正しくてもCさんの意見が正しくても、Aさんの結論、主張には全くなんの影響もないんです。
こういう「最終的な結論」になんら影響を与えないのに、その前段階の細かいことにやたらとこだわって時間を空費する人って意味不明です。
なんですけど、ネット上はもちろん、リアルな社会でもこーゆー「議論のための議論」がやたらと好きな人がいます。
実は私のブログに寄せられる反論の大半も、「で、それがどーしたの?」ってことばっかりです。
私は「結論を変えない細かい反論」には興味が無いので、たいていの場合、返事する気にもなれません。
もちろん議論をするのが目的なら(=会議をするのが目的なら)いつまでも議論していればいいでしょう。そして議論が趣味だというなら延々やってればいいと思います。
しかし、結論を出すのが目的なら、& 結論に基づいて行動するのが目的なら、、BさんやCさんの言っていることは「正しいかもしれないけれど、全く価値のない発言」です。
あなたがしたいのは「議論」なのか? それとも「結論をだすこと」なのか?
どっち?
というか、会社において「議論のための議論」をする人って何なんでしょうね?
自分の趣味を職場に持ち込むのはやめてほしいです。趣味は家でやってください。
そして、就活のグループディスカッションで見られてるのは、こういうことなんですよ。わかってる?
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