「日本一のニート」を標榜する phaさんとの対談 からは、いろんな“気づき”がありました。
対談の後、phaさんと一緒に地下鉄に乗ったのですが、たまたま最初に来たのが各駅止まりでした。
それに乗った後、「もしかして急行のほうがよかったですか?」と聞いたら、phaさんの答えは「いや、いいんです。急行は混むし」というもの。それを聞いて、「あ〜、違う世界だなあ」って思いました。
私がいま働いている業界では、急行に乗るか各駅停車に乗るかという命題にたいして、判断基準は時間、つまり「どちらが早く着くか」しかありません。
でも、「早く着く」などということは pha さんにとっては余り意味がないのでしょう。大事なのは「混まないこと」なわけです。
中学受験などで、「A駅に急行が止まってて、その時速は 40キロ、10キロ離れてる B駅に各駅が止まってて・・どっちが D駅に先に着くでしょう?」みたいな問題がありますよね。
ああいう問題を説く時にも、「各停電車はすいているが、急行電車は混んでいる」という要素を考慮することは求められていません。
つまり私たちは知らず知らずのうちに、社会の提示する判断基準を刷り込まれているのです。
しかし大事なのは、自分の優先パラメーターが何なのか(=自分にとっての判断基準って何?)を見つけることです。
他人の基準で生きると、「早く着くけど混んでる電車」に乗って生きなければなりません。それは、人によってはつらいことなのです。
もうひとつ興味深かったのは、pha さんが「プログラミングを知ったことで、自分に適した表現方法に出会った」と話されたことです。
その数日前に他の人から、「紙に書いた提案書とかもう意味がないよね。
プログラム作って画面上で動かして“こういう感じのビジネスをやりましょう”って言ったらすぐ済む話なのに」と言われて、その時は「そうか、プログラムってパワポに取って代わるんだ」と思いました。
つまり、「プログラム=プレゼンツール」なんだと思ったのです。でも、さらに一歩進めて“プログラムって表現方法なんだ”と、この日(ようやく)理解できました。
人間ってみんな自分の中に「何か」を持っています。それは、なんらかの表現方法を通して具現化しないと他人には伝わりません。
伝わらないと理解してもらえないし、それどころか、表現方法というフィルターを通さないと、自分自身でさえそれが何なのか意識できなかったりするんです。
誰かに自分のことを伝えたい、誰かに理解して欲しい、自分自身、今、自分の中に在るものを理解したい、というのは、誰もが持つ自然な衝動です。
だから、その「自分の中の何か」を巧く(ああ、これなんだよ!という感じで)表現しうる方法やツールを手に入れられたら、皆とても幸せなはず。
自分を表現するツールとしてはたとえば、
- 話し言葉(表情とか含む)
- 書き言葉(散文)
- 短歌・俳句、詩、コピーのような言葉、韻文
- 演芸(落語、漫才、駄洒落?)
- 写真
- 絵
- デザイン、意匠
- 楽器
- メロディ、曲、リズム
- 声
- 体(踊り、劇、体操的なもの、いろいろ)
- 映像
- 料理
- プログラム
- 創造物(建造物、モノ、現代アートみたいなもの含む)
- 働き方(?)
- ビジネス
など、結構いろいろあるんです。
考えてみるとこれらの大半は学校で、しかも義務教育のかなり早い段階でひととおり体験することです。
作文書いて、絵を描いて、韻文も作ってみたり、歌も歌って(なぜか)笛吹いて、運動会には踊らされ、文化祭では演技もします。
そうか、あれって「あなたにとっての表現方法を見つけなさい」っていう教育だったんだな、と思いました。
なにかひとつくらい自分にぴったりな「自分を表現する方法がみつかればいいよね」という、そういう教育課程なんだと気がついたのです。
プログラミングは今の小学校のカリキュラムにはなさそうだけど、それが個人の表現方法になり得るのなら、是非とも早めに子供達にも体験させた方がいいですよね。
私は「テキスト、書き言葉」という比較的一般的な表現方法で自分を表すことが得意でした。
小さい頃から作文はよく入選していたし、文章を書くことが大好きで、日記をずっと書いてきました。
テキストという一般的な表現ツールが自分に合っていた私のような子供はとてもラッキーです。
でも、そうでない子もたくさんいます。
自分に合った表現方法が見つからなくて、周りに自分のことが理解して貰えなかったり、自分自身が自分をうまく扱えなかったりすると結構つらいです。
わかってもらうことを諦めたり、拒絶したり、絶望したり、するかもしれない。時には暴力や、“閉じる”という行動によって、それを表現することになるかもしれません。
当然だけど、表現方法の幅よりも、人間の心の中にあるものは圧倒的に多彩で多様です。だから、それを 100%表現するのは誰にとっても不可能でしょう。
だけれども、出来る限りそれらを具現化することにより、個々人の疎外感という不幸を減じる大きな力にはなるはずです。
だからそのツールとなりうるものは、できるだけ多く、早い時期に体験できるよう、小学校などで触れる機会があればいいなと思います。
それとその際、「表現方法を探す」ことを明示的な目的として認識させれば、より生産的とも思います。
言葉で表現できない感情を抱える(認識する)というのは、「誰も俺をわかってくれない!」わけでも、「コミニケーション能力が低い」わけでもなく、
自分に最適な表現ツールをまだ手に入れてない(出会っていない)だけだと教えるのです。そして、その“手段を手に入れる”ために、いろいろ試してみればいいのよと、言ってあげるのです。
今もしあなたが、「誰にも伝えられない、わかって貰えないことがある」と感じているとしたら、それはもしかしたら「それを伝える“自分の表現法”とまだ出会っていないから」なのかもしれません。