“所有”という時代遅れ

資本主義経済の特徴のひとつが「私有財産制」にあるように、これまでの経済発展の中では、「より豊かになる」とは「より多くを所有すること」でした。

食料から始まって、衣服、家電、車、家、不動産、(一夫多妻制においては)妻、お金、会社(生産手段)と、何でもより多くを所有している人が“豊かな人”“豊かな生活を送っている人”であると認識されてきました。

ところが、世の中は今、より所有しない時代へ向かっています。

より所有しない生活こそが、より豊かで高度に発達した生活スタイルなんだと。そういう時代に向かっている気がします。


最近は個人が自分の蔵書をデジタル化するのが流行ってると聞きますけど、それ以外でも、基本的にすべてのものが「非所有(非保有)」の方向に動いているんじゃないかな。

・持ち家より、賃貸を住み替える。

・マイカーを持つより、レンタカーやタクシーを利用する。

・本を持つより、必要に応じて図書館などで借りるか、ダウンロードする。

・音楽CDや映像DVDを所有せず、借りてきたり、必要に応じてDLする。

・冠婚葬祭用の衣服(ウエディングドレス、式服、パーティドレス)やブランド品のバッグも買わずにレンタルする。

・家具のレンタルも流行っていると聞いた。ソファやベッドから家電までなんでもレンタルできる。

・スーツケースなど旅行用品も買わずにレンタル。

・スキー、ゴルフなどのスポーツ用品も同様。

・自分のパソコンにアプリケーションやファイルをもたずに、すべてクラウドサービスを使う。

・企業も正社員を所有せずに、派遣で労働力を借りてくる。



よく考えれば、大学生の教科書なんか毎年新入学生が新しい本を買う必要はないよね。

大半の本はみんな授業が終われば処分するでしょ。

卒業後もずっと持っていたいと思うような教科書はせいぜい数冊では?だったら、デジタル化された教科書ファイルをiPad用に購入して所有する必要さえない。


学生が必要なのは「教科書の必要箇所を読む」という使用価値だけなんだから、その“使用料”を払えばいいのであって、紙だろうとデジタルファイルだろうと「自分用」として所有する必要はないんだよね。

大学だとまじめな人のノートを借りてコピーすることもあると思うけど、そういうのもノートをとるのが巧い人がそれをサーバーに保存して、見たい人が一定の使用料を払って利用する、というのもアリだと思う。

全員が全員、“自分のノート”を所有する意味とか別にないでしょ。


そもそも「なんで所有する必要があるのか」「所有することの合理性はなにか?」と言えば、所有することによって「いつでも使用できる」からですよね。

でも、デジタル化される情報は、ネット上に存在すればいつでも使用できる環境になるから所有の必要性がなくなっちゃう。

デジタル化されないものだって、上記にかいたように“レンタル”、“一時的に借りる”という仕組みさえできれば、所有する必要はない。

みんな、今、自分の身の回りにあるものをざっと見回してみて下さい。

目に入るものすべてを「貸してくれる」という商売がもし実際に存在してたら、それでも「いや、これは借りるのではなく、どうしても自分で所有したい」と思うものってなにかありますか?

テレビもパソコンも数年のレンタルでいいし、ソファや机やベッドも引越のたびに運ぶより、レンタルで揃えておいて、引越時には新しい部屋に合うサイズや雰囲気のものをあらためて借りる方が合理的。

そうなれば所有するものは、ごくごく身近な日用品(最低限の食器、下着、普段着、布団)など、衛生的に他人と共有はしたくないもの、非常に消耗が早いものに限定されるのじゃないかしら。

しかも家具や家電なら、新品のレンタル、二次使用品のレンタル、三次使用品のレンタルと、同じ商品でもレンタルされるたびに価格が落とせるから、数十万円のイームズのロングチェアを三次使用で格安レンタルみたいな市場も作れるし、初めて一人暮らしを始める人の初期コストもすごく安くできる。


実は「所有する」のは、伴うリスクやコストが非常に大きい。

都会では家賃など保管スペース確保費がバカ高いし、火事や盗難で消失するリスクもある。

子供を撮りためたビデオテープなんてメディアの世代交代がおこると観賞さえできなくなる。(もしくは多大な変換コストが必要。)大半のものは長く物理的に所有してると、ホコリがたまったりメンテが必要になるし、今や家具も家電も捨てるにもお金がかかる。

それに、多くの家具や家電はまだ使える段階でリサイクルされずに廃棄処分されてしまうから、エコの観点からも負担が大きい。

つまり“所有”ってのは、すごく不便で、原始的で、無駄の多い“使用価値の確保の手段”だと思うわけです。

結局のところ消費者、生活者としては“いつでもどこでもの使用価値”だけが確保できれば、それを確保する手段は“所有”以外の方法でもいいんだよね。

“所有”より合理的な使用価値の確保方法が普及すれば、そっちの方がよいでしょ。


なのでまずは、
(1)できる限りのものをデジタル化
(2)できる限りのものをクラウド化
(3)できる限りのものをレンタル可化


した方がよいよね。昔は「共産主義は私有財産を否定」みたいな話があったけど、「今こそ資本主義も所有の呪縛から解き放たれるのだぁ!」みたいな感じで。


子供の写真やビデオ、書いた絵やお習字などの作品なんかも、押し入れの半分以上を占拠するほど(しかも四半世紀にわたって)ため込んでる家は結構あると思いますが、あれもデジタル化して外部サーバーに保存しとけば、帰省した時に祖父母宅のテレビにこの前の運動会のビデオを呼び出して観賞することができる。

もっといえば、そんなビデオをすべての親が必死で撮影する必要さえない。

数人のプロのカメラマンが学校の各行事をくまなく撮影する。もちろん個々人の子供にもたっぷり時間をかけてね。

で、そういうビデオが全部どこかのサーバーに保存されている。その学校に子供が通う父兄はアクセス権をもらってて、自分の家でも祖父母の家でも、持ち歩いてる端末でも、いつでもそれらを見る、もしくは誰かに見せることができる。

サーバーにアクセスすれば、“運動会 2010、音楽会 2009、卒業式 2008”みたいな映像リストがイベント毎に整理されているんで、好きなモノを見て、料金は見た量に応じて払う、と。

いや、どうしても自分のカメラで自分の子供だけを撮影したいというなら、それも一緒に保存しておいてもいいけどね。

というわけで、所有というのが「実は非効率な方法だよね」ということになれば、「趣味としての所有という行為」が、所有の中心的な目的になるんじゃないかな。

いわゆる“コレクター”ですね。「俺にとっては、使用価値じゃなくて、所有価値にこそ意味があるのだ!」という人が一定数存在するんだろうな、ってことはわかります。

それはなくならない。でも、ごく普通の人にとっては「使用価値の確保手段として、所有という形態を選択する意義」はどんどん低下していくだろう。

そしてそのうち、「昔はみんな必死で働いて、より多くを所有しようと頑張っていたんだよ。

あの頃は借りるっていうシステムが整ってなかったから、使用するには所有するしかなくて、不便な時代だったんだ」みたいな。そんな話になるんじゃないかな。


もちろんお金だけは例外だという意見を否定するつもりはないけど、この国には田畑を売り払った多額のお金を「所有」はしているものの、全く「使用しない」という高齢者もたくさんいて、いったいみんなそういう状態をうらやましいと思っているのかどうか。

お金だって結局は「所有より使用できる人」をうらやましいと思うでしょ。


そういえばバブルの頃には「レンタル家族」みたいなサービスが報道されてたけど、ああいうのもおもしろいと思う。

敬老の日に孫をレンタルとか、バレンタインに彼氏レンタルとかね。

家族や友人をレンタルとかいうとまた人道的、人権的に云々みたいな話になるんでしょうけど、アルバイトとしてもおもしろいと思いません? 

「週末ヒマだったから、話し相手に、ちきりんを 2時間レンタルしてみた」みたいな。で、ちきりんはアルバイト料として時給 3000円頂きます、とか。

もっと有名な人を 2時間くらいレンタルして、自分とその人の対談番組を ustream で作っちゃうとかもありですよ。高そうだけど。



そんじゃーね。


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