共同問題解決という手法

温家宝首相と李明博大統領が菅首相と一緒に被災地の避難所を慰問し、現地の果物を食べてるニュースを見た。加えて温家宝首相は、日本の農産物の輸入や、日本への観光をそれなりに推進しますと表明してみたり。

両首脳ともまだまだ日本への不信感もあるだろうに、ここは隣国のよしみで協力してくれている感じがアリアリと伝わる。ありがたいこととは思います。


でもちきりんは思ったよ。「一緒にさくらんぼを食べることはできるけど、一緒に問題を解決するのは苦手なんだよなー」って。

ほぼ同時に流れていたのはIAEAの研究者ら20人が、福島の状況を調査するために日本を訪れたというニュース。「ようやく・・・」というのが正直な気持ち。しかも今回は調査に来てるだけ。そうじゃなくて必要なのは、「一緒に問題を解決する」ということなのに。


★★★


日本人は「外部の人と一緒に問題解決する」というのが苦手だよね。むしろ「内部の問題は内部だけで解決するのがスジだ。」とか、「外部と一緒に問題解決してもらおうなんて無責任な態度だ」とでも思っているようだ。

「問題は決して外部にでないように隠し、内部できっちり処理をする」・・それが今までの日本の組織の「正しい落とし前の付け方」だった。隠蔽体質とかっていうけど、そうではなく、「内部だけで処理をするのが正しい責任の取り方」だと教えられ、そして信じてるんだと思う。


外部の人と一緒に問題解決するのって、あうんの呼吸が通じる内部者間だけで解決するのに比べて、最初はちょっと面倒くさい。議論のベースや使う言葉を摺り合わせる必要もあるし、アプローチ、価値観、スピード感覚など、何もかもが違う。

本当は「だからこそ」、内部者だけで話し合っていても堂々巡りして抜け出せない迷路から抜け出せることがある。だからこそ、いつもいつも同じ着地点に至ってしまう内部者だけの議論ではなく、創造的な解が見つかることがある。

だけど大きな問題が起こっている時はみんな余裕がない。だからやっぱり「目先の余計な手間」を省いて、よくわかっている人達だけでやりたいという話になる。これはなににせよ、同質性の高い組織ですべての物事を決めてきた日本のひとつの特徴でもある。


なにより日本の組織エリート達は、「自分と異なる価値観の人達と議論して、一緒に問題を解いた」という実体験がない。これが致命的だと思う。

彼らの多くはいわゆる「エリート」だから、個人戦で十分に満足のいく成果を残してきた記憶が染みついている。就職してからもあまりにも似通った人達が集まる集団内だけで議論している。2年間だけ留学しても、(日本人の留学タイミングが非常に遅いので)自分達より10才近く若いアメリカ人(のお子ちゃま)とチームを組むことになり、なんだかピンとこない。


異質な人達と一緒に必死でリアルな問題に取り組んで「同質の者だけでやっているより、明らかにいい解にたどり着けた!」という成功体験に決定的に欠けている。

経産省も東電も原子力関係の研究者が所属する大学も、そういう人ばっかりで構成されている。


★★★


IAEAは世界から原子力がなくなるなんて事態を望んでいない。そんなことになったら彼ら自身が存立前提を失う。アメリカやフランスにいたっては自国の政治的基盤や経済的未来が原発にかかっている。彼らは福島の解決のためにいくらでも協力してくれるだろう。

それなのに、日本のエリート達はそれを利用しない。

その上、こういう事故の時に外部者の参加を頑なに拒むことが、外からどう見えるか、どれほどの不信感を招くかを理解できない。

「オレ達だけでなんとか解決できれば、あいつらだって納得するはず。見直してもらえるはず。見返してやろうぜ。」くらいのことを思っている。



あほちゃうか。


そうじゃないんだよ。



日本にも優秀な研究者がたくさんいるのだとか、日本の技術がどれほどすぐれているかとか、そいういう話じゃないんです。「世界と一緒に問題解決をする」ということ自体に極めて大きな価値があると、なぜわからない?

彼らを問題解決のプロセスに巻きこんで一緒にやれば、世界の不信感は一気に解消できる。日本の原発処理を冷ややかに懐疑的に眺める世界の目を、「みんなで一緒にやろう!」という姿勢に変えられる。


汚染水や除去した汚染物質の処理、農産物や漁業産物の被害拡大の防止、同時に食の安全の確保、さらには人体への影響を見極めた避難エリアの決定・・・メルトダウンしている炉心の処理だけじゃない。緊急に解決が必要な問題が文字通り山積してるわけで。

そろそろ日本も、「他者と一緒に共同で問題解決する」ってことを、覚えたほうがいいんじゃない?


そんじゃーね。