どの常識の世界で生きるか

以前、知り合いの起業家から聞いた話がとても印象深く、記憶に残っています。

彼は若い頃から起業を志しており、その思いはブレることなく 20代で起業、今も順調に会社を育てています。今は IPOも実現し、上場企業の社長になっています。

この会社、最近は海外展開も始めているのですが、そのきっかけとなったのが、「海外の起業家との交流」だったそうです。


彼が初めてアジアの起業家が集まるカンファレンスに出席した時、交流会での起業家間の会話において、

最初の質問は常に「あなたの会社のビジネスモデルは?」というもの、

そして、二番目の質問が「で、その事業は何カ国で展開してるの?」だったというのです。


彼が最初の質問に答えて自分の事業の説明をすると、みんな「おー、それはユニークなビジネスモデルだ。おもしろいね!」と言ってくれる。

ところが二番目の質問に彼が「今は日本だけでやってる」と答えると、みんなが「へっ!?」という顔をして、「なんで????」となってしまう。

「まずは日本で基盤を固めてから・・」と説明しても、「なんだそれ? おかしな考えをする奴だな」といった扱いを受けてしまう。

しかも同じことが交流会の最中に何度も繰り返されたと。

これで衝撃を受けた彼は、その後、事業の早期海外展開に取り組み始めたというのです。


この話は非常に示唆に富んでいます。

もうずっと前から彼は、有望な若手起業家として注目を浴びていました。

同じ世代の起業家仲間との交流はもちろん、大御所の先輩経営者を含め、様々な経済人、ビジネスパーソンと知り合いだったし、多くのメディアからの取材も受けていたのです。

にもかかわらず、彼は日本ではそういう質問を“当然のように投げかけられる経験”をしていませんでした。

誰も彼に、そういう質問をしてこなかったのです。


ところが海外の若手起業家と会うと、全員が「世界で成功するビジネスを興す」ことを目指しており、若い起業家ならさっさと世界を目指すのが当然であるという、「今までとは違う常識」に出くわしました。

そして、「異なる常識の世界」に触れることで自身の常識も変わり、異なる世界へ足を踏み入れるきっかけを得た、というのです。


★★★


笑い話のようですが、経済産業省から民間企業に転職したある知人は、「最初の頃“予算“という言葉の意味が人と違っていて笑われた」と言っていました。

霞ヶ関で育った彼にとって「予算」とは、「年度末までに使い切ってしまわねばならない経費の総額」を意味していました。

予算を余らせると翌年の予算が減額されてしまうため、どの省庁も期末までに必死で予算を使い切ろうとします。(だから年度末は道路工事が集中します)。


一方、民間企業の多くでは、予算とは売上げ目標のことです。

「使い切らなければならない経費の額」を予算と呼んだり、そもそも最初に「今年中に使い切ってしまわなければならない費用の最低額」を決める民間企業など、ほとんど存在しないでしょう。

けれど役所や、もしくは補助金を収入としている大半の公的な組織にとって「予算」とは、使い切るべき経費のことなのです。

このように世の中では「まったく異なる常識」をもつ世界が、いくつも並立して存在しています。


★★★


もうひとつ別の話です。

ずっと前、今よりまったく知られていなかった私のところに、「ちきりんさんと会って、こういう話をしたい」というメールを送ってくる人がいました。

当時、そう言ってきた人の一人に「全く知らない人に、会いたい、話がしたいとメールを書くなんてスゴイですね。そういうことは、○○さんにとってごく普通のことなんですか?」と聞いてみたことがあります。

すると彼の答えは「実は僕、以前は出版社で編集者をやっていたんです」というものでした。

なるほど、それなら見知らぬ人に連絡をとって会いに行くのは、ごく普通のことでしょう。出版社の編集者にとって極めてそれは日常的な行為であり「常識」でさえあります。


そう納得した後、話を続けているうちに彼が口にした言葉が、これまた大変に興味深いものでした。

というのも彼は、今は自分でビジネスをしながら本も書いているのですが、

「ちきりんさんは本も出しているのに、ブログにあれだけの文章を書くなんて勇気がありますよね。僕はネット上の無料の場所に、気合いを入れた文章を書く気がしないんです」と言ったのです。


これは私にとって大きな驚きでした。そして「なんでこの人はそんなふうに思うんだろう?」と考えてみました。

おそらくそれは、彼が「元々編集者であった」頃に身につけた常識から、きているものなのでしょう。

彼には(当時、出版社の編集者として身につけた常識に照らして)、「価値ある文章をネットに無料で開示する」ことに抵抗感があったのだと思われます。

一方の私、「ちきりん」は、つい最近まで「文章を売って稼ぐ」という経験をしたことがありません。今でさえ、ネット上で得られるものは、本を出して得られるものより圧倒的に大きいと感じています。

だからネット上に価値がある(と自分で感じる)文章を無料で開示することになんの抵抗感もないのです。「みんな、どんどん読んで!」という感じです。

この「私の常識」は、対価を頂いて記事を書き始めたり、書籍を出版し始めた今でも変わることはありません。

でも、最初に「価値ある文章は本にして売るのが普通」という業界からスタートしてしまうと、そこから飛び出すのは簡単ではありません。

私だって、もし最初から「紙の本を書く作家・文筆業」としてキャリアを積んでいたら、こういう常識をもつことは決してなかったでしょう。


★★★


人は誰しも「自分の常識」を持っているけれど、実はそれらは必ずしも「世間の常識」と同じではありません。

最初の例で見られるように、日本と世界の常識が大きくかけ離れていることもあります。

しかも、「いったん身についた常識」を変えるのには、大きなエネルギーが必要です。

だから、「どんな常識を身につけるか」、「どんな常識の下で生きるのか」、「どんな常識を持つ場で最初に働くか」は、その人の行く道を大きく左右します。

いったん働き始めた後でも、「どんな常識に出会えるか」が勝負なのかもしれない。

少なくとも、「自分の常識」「自分の業界の常識」が、外の世界の常識とどう違うのかについて意識的であることは、とても大事なことだと思います。



そんじゃーね。

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