盤上の勝負 盤外の勝負

故米長邦雄氏の『われ敗れたり』 を読んで最も勉強になったのは、将棋の勝負は、盤上の技能だけで決まるわけじゃないとわかったことです。

われ敗れたり―コンピュータ棋戦のすべてを語る

われ敗れたり―コンピュータ棋戦のすべてを語る


この本には、将棋ソフトとの対局が決まった時、米長氏がどんな準備をしたかについて書いてあります。ソフトの指し方を研究するなど、将棋の技能に関する準備もあるのですが、実はそれ以外にもいろいろと準備が必要なんです。

たとえば、米長氏は「勝負の前日から将棋会館に宿泊する」ことを希望しました。
コレ、なぜかわかります?


この勝負には大きな注目が集まっていました。米長氏が対局日の朝に自宅から将棋会館に向かえば、入り口で待ち受けたマスコミの記者たちにもみくちゃにされ、「勝つ自信は!?」「負けたらどうされますか?」的な質問を浴びせられます。

言うまでもなく、将棋の対局では精神力や集中力、心の安寧などが非常に重要なわけで、朝からそんなことで気が散ってしまっては勝負に差し障るでしょう。


これはよくわかります。でもね。コンピュータにはそういうことは起こりません。対局日の朝にメディアに囲まれれば、ソフト開発者は緊張してアワワ状態になるかもしれない。それでも将棋ソフトのパフォーマンスには全く影響しないのです。

同じことは別の形でも紹介されます。このとき、対局中や休憩時の写真撮影は禁じられていました。そういうのは勝負がついてから、という取り決めだったのです。

ところが昼休みに、部屋を出た米長氏にたいして某社の女性記者がカメラを向け、写真を撮ります。これは明らかなルール違反です。

真剣勝負の最中であった米長氏は、この女性記者に「ルール違反だから、取材を止めて将棋会館から退去するよう」求めますが、女性記者は泣き出して謝ります。


以下、『われ敗れたり』からの引用

この出来事は私にとって、実は致命的であったと考えています。このやり取りでロスした時間は約10分。そして、時間的ロスもさることながら、このやり取りの後、私が冷静さを取り戻すのにはるかに大きな精神的ロスが生じてしまったのです。(中略)


しかしお昼休みになって対局場を出た瞬間に写真を撮られた。私はそれをニコッと笑って許すことができませんでした。


怒ったら、そのことが勝負に悪影響を与えるであろうことはわかっていたのですが、それでも怒ってしまった。これは私の精神的な弱さにほかならず、また、敗着はそこにあったと思うのです。

そんな記者がいるとは呆れるばかりですが、このエピソードも「人間って大変だな」と思わせます。

何時間もの長丁場の対局。お昼には十分な休息と精神のリラックスが必要なのに、たったひとつのトラブルで人間は心乱され、大きなダメージを受けてしまいます。

これもコンピュータにはまったく起こらないことです。


この他、米長氏は「誰が実際の指し手として自分の前に座るか」についても、様々に検討しています。今回の電王戦でもそうでしたが、盤の向こうに座るのはソフト開発者ではありません。コンピュータにロボットアームが付いているわけでもないです。

なので、コンピュータの指示した手を指す代理の人間が必要なのですが、この本を読むまで私は、その人選が大事だなどとは想像していませんでした。


でも確かに言われてみれば、誰でもいいというわけにはいかないでしょう。人間二人が何時間も向き合って、高い緊張状態の中で真剣勝負を続けるのです。

自分の前に座った人間が、勝負に執着を見せず、そわそわしていたり、超テキトーな態度で駒を動かしたり、もしくは、ちきりんのお面でもかぶっていたりした日には、とても集中できるものではありません。

だから、こういうことも棋士にとっては、対局前に決めておくべき重要な条件です。でもコンピュータにしてみれば、「そんなことは超どうでもいいこと」でしょう。


その一方、コンピュータ側の環境制限としては将棋会館の電力容量の話がでてきます。

当時の会館の電力容量は4000ワット。事前の話し合いにより、建物側の容量アップなどはせず、この範囲内で(実際にはギリギリではなく、一定の余裕が持てるようその7割までの電気容量の範囲で)将棋ソフト側は持ち込むコンピュータの台数を調整することになりました。


ここまで読んで、ちきりんは理解しました。

勝負は決して盤上の技能だけで決まるわけではありません。人間と将棋ソフトという今までになかった組み合わせで対局を行うには、それぞれにとって公平なルールを決める、という点が非常に重要であり、それがまた、けっこう難しいんです。


上に挙げたこと以外でも、たとえば、
・ソフト開発者は対局前に、将棋ソフトを棋士に提供する義務があるか
・持ち時間を何時間に設定するか
・対局相手がいつ決まるか
・ランチなどの休憩時間のルールや、(ソフトのフリーズ時など)トラブル時のルールはどうするか

などは、直接的に勝負の行方に影響を与えます。


今年、5対5の団体戦でプロ棋士として唯一勝利した阿部四段は、事前に貸し出された将棋ソフト「習甦」を徹底的に研究し、その“癖”を突くことで勝ちを手にしました。

「対戦ソフトが、ある局面になると無茶な動きを始める」という局面を見つけだし、そこに持ち込んだのです。

今回、彼が唯一の勝利棋士であったことを考えると、(様々な議論はあるでしょうが)この方法は明らかに有効なひとつの戦法です。

そしてこの戦法をとるには、事前にソフトを提供してもらうことが必須となります。(今年の第二回電王戦は、事前提供されたソフトとされなかったソフトがあるそうです)


将棋ソフトはこれまで、トップ棋士の棋譜を参考に、局面評価の能力を磨いてきました。ソフトは人間を研究し尽くしてくるのに、人間側は対局当日までそのソフトがどんな指し方をするのかさえ見られない。

人と人の勝負なら、それぞれがお互いを徹底的に研究して勝負に臨むはずです。なにが公平なのか、いろんな考え方があると思いますが、こういった条件設定は「どちらが勝つか」を大きく左右する可能性があるんです。


持ち時間の長さも重要です。持ち時間の短い勝負や、早指し将棋などでは、コンピュータが圧倒的に有利です。

今回の対局では4時間だったようですが、竜王戦や名人戦では8時間以上といった持ち時間が設定されています。

電王戦の持ち時間がどうであるべきか。朝から晩まで対局していても、トイレにいく必要もないコンピュータの持ち時間は本当に人間と同じでいいのか? 部屋に同席しているソフト開発者がトイレにいく時間を、ソフト側の待ち時間から引くべきじゃないか、みたいな議論だってあり得るかもしれません。


私が言いたいのは、ルールを人間側に有利に変えろ、ということではありません。単に、「勝負の行方を決める盤外の条件は意外にたくさんあり、かつ、それらの影響は無視できないほど大きい」ということが、とてもおもしろかったのです。

もっと言えば、日本将棋連盟とドワンゴは「人間がコンピュータに負ける日」のタイミングを、相当程度、コントロールできるということです。(ちきりん的には、ソフト開発者側の発言力は、あんまり大きくなさそうと踏んでいます)


対局形式の話もあります。今回は 5人対5ソフト の団体戦でしたが、これを他のタイトル戦のように、ひとつのソフトとひとりの棋士の 5番勝負や 7番勝負に変更することもできます。

これなら、万が一棋士がソフトに負け続けても、年間に最大一人しか負けません。タイトルホルダーが 3人いれば、「コンピュータが人間に勝つ」には最低でも 3年かかることになります。

だから「人間がコンピュータに負ける日」が何年後なのかと当てる(議論する)というのは、あんまり意味がありません。

だってそれって(ある程度は)コントロールできることだから。



誰がコントロールできるのかって?

もちろん“人間様”が、です。


つまりそーゆーこと。


そんじゃーね



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<コンピュータ将棋 関連エントリの一覧>


1) 『われ敗れたり』 米長邦雄
2) 盤上の勝負 盤外の勝負 ←当エントリはこれです
3) お互い、大衝撃!
4) 人間ドラマを惹き出したプログラム
5) お互いがお手本? 人間とコンピュータの思考について
6) 暗記なんかで勝てたりしません
7) 4段階の思考スキルレベル
8) なにで(機械に)負けたら悔しい?
9) 「ありえないと思える未来」は何年後?
10) 大局観のある人ってほんとスゴイ
11) 日本将棋連盟の“大局観”が楽しみ 
12) インプット & アウトプット 
13) コンピュータ将棋まとめその2