『昭和史 戦後篇』 を読んで

今日は下記の本を読んで学んだ「戦後の歴代首相がやってきたこと」をまとめておきたいと思います。

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この本を読んでわかったのは、「日本は今でも戦後処理をしてるんだな」ってことです。


戦後の歴代内閣の取り組みをまとめると、↓

<戦後内閣が達成したこと>


1)吉田茂 1946-1947, 1948-1954  

アメリカを中心とする戦勝国と講和条約を締結して米軍による占領時代を終わらせ、日本を独立させ、同時に日米安保条約を結び、日本は経済復興を優先すると決定。


・片山哲、芦田均 (社会党政権、 9ヶ月と 7ヶ月)


2)鳩山一郎 1954-1956  
ソビエトと国交を回復


・2ヶ月だけ石橋湛山


3)岸信介 1957-1960  
安保条約の不平等部分を改定


4)池田勇人 1960-1964  
所得倍増、経済復興 東京オリンピックを成し遂げ、先進国の仲間入り


5)佐藤栄作 1964- 1972  
沖縄返還を実現。韓国とも国交回復


6)田中角栄 1972-1974  
日本列島改造論による地方の経済発展 + 中国との国交を回復


次はひとつずつ詳しく見ていきましょう。


戦後、アメリカに占領された日本の首相となった吉田茂氏は、悲願の独立を成し遂げるため、「日本はアメリカ側につく」と決めました。

当時、日本の知識人の多くは「戦争を繰り返さないためには、ソビエトなど共産主義国を含めた、世界すべての国と和解し、講和条約を結ぶべき」と主張していました。

「西側諸国だけでなく、世界のみんなと仲良くすべきだ!」と。これを「全面講和案」と言います。


「みんなと仲良く」というのは、確かに言葉としてはキレイです。

でも現実派で実務派の吉田首相は、そんな(頭がお花畑な)知識人たちを、「学者は国際政治をわかってない」と一蹴し、アメリカが率いる資本主義陣営のみと講和します。

さらに、「防衛(軍備)はアメリカに任せ、日本は経済復興に専念する」とも宣言しました。


今の日本があるのは、吉田首相の、このふたつの判断のおかげです。

まずは、「アメリカ側につく」という判断。


もし「全面講和でソビエトとも仲良く」とか言ってたら、当時から北海道への色気を隠していなかったソビエトは、

「アメリカが沖縄に基地を残すなら、ソビエトも北海道に基地を残す」

とか言い出し、ひいてはその後の米ソ対立の中で、日本だって南北分裂、最悪の場合、日本も韓国やベトナムのように、米ソ代理戦争の舞台=戦場にされていたかもしれません。

「日本はアメリカ側につく。そして防衛は丸ごとアメリカに委託する」

この吉田氏の英断により、ソビエトは日本に手を出せなくなったのです。なぜなら「アメリカの核の下にある日本に手を出せば、核戦争を誘発してしまうから」


一方で吉田首相はアメリカの要求に屈せず、日本の欲求を通すことにも成功しています。

実は終戦直後こそ日本の非武装化を主張していたアメリカですが、そのわずか数年後には日本に再軍備を求め始めました。

終戦のたった 5年後の 1950年には朝鮮戦争が勃発し、米ソ東西対立が明確になっていたからです。


でも、餓死者がでるほど貧しかった当時の日本が本格的に再軍備を始めたら、経済復興は進みません。

実際、北朝鮮と対峙していたため再軍備が不可欠だった韓国は、貧しい国民生活を置き去りにして軍備にお金を使わざるを得ず、

その後はアメリカの要請に応じてその軍をベトナム戦争にまで派遣させられるなど、非常に厳しい状況に追い込まれました。


再軍備を受け入れたらきっとそういう事態が起こると予想(懸念)した吉田首相は、極めて不平等な日米安保条約を結んでまで、

「アメリカが日本国内に基地を持つことを認めるから、その基地を自由に使って、アメリカ単独で共産主義国に対抗してくれ。日本軍の再建はあきらめてくれ。今の日本の経済力では無理だ」
と主張したのです。


中国などアジアにおける共産主義勢力の伸張に強い危機感を感じていたアメリカは、それでもしつこく日本に再軍備を要求し、1950年には自衛隊の前身である警察予備隊が創設されましたが、

日本側の負担を極めて軽装備な“警察予備隊”に留めることができたのは、吉田首相の大きな功績でした。


しかしこういった日本側の主張を通すには、譲らねばならない部分もでてきます。

実際、吉田氏が結んだ当初の日米安保条約は、様々な面で日本に不利な「不平等条約」でした。

たとえばアメリカは沖縄を占領しつづけ、その土地を基地のために使えるようになりました。

日本は(本土は)沖縄を犠牲にして、経済復興への切符を手にしたのです。

そしてもちろん吉田氏は、それが屈辱的な不平等条約であることを理解していました。


だから通常は首相の他、外務大臣など複数名が署名する独立条約に、(他の人にはサインさせず)ひとりで書名します。

「将来の歴史家が、こんな酷い条約を結んだのは誰だと調べた時、自分ひとりで歴史の責任を負えるように」というのがその理由。

それだけ不平等な条件を呑んでも「再軍備だけは避けたい」、これが吉田氏の判断だったのです。


★★★


吉田氏の次は、鳩山一郎氏と岸信介氏が首相になります。

戦前から親米・新英派であり、戦争にも反対だった吉田氏と異なり、鳩山一郎氏は GHQ から“軍国主義者”として公職追放をくらっているし、岸信介氏に至っては A級戦犯でした。

ふたりとも、戦争を起こした大日本帝国の権力者だったのです。

にも拘わらず彼らが首相になれたのは、ひとえに冷戦のおかげです。


冷戦が起こり、「さっさと強い日本に戻って欲しい、日本まで共産主義国になったりしたらトンデモない」と考えたアメリカが、戦争犯罪者の追及をストップしたため、ふたりとも表舞台に返り咲きます。

政界に復帰した彼らは、明治以来の日本が目指してきた“欧米列強と並び立てる強い日本”(もちろん軍隊を持つ国)を再興しようと考えます。

そのためには、戦争を放棄した平和憲法を一刻も早く改正したい。


んが、国民の強い世論がこれを阻止します。

国民は、多くの命が失われ、戦火に逃げ惑い、餓死する家族さえ続出していた戦争の日々を「もうコリゴリ!」と考えていたからです。

だから「憲法改正も再軍備も絶対ダメ!」というのが世論の大勢でした。

そういった世論に負け、鳩山・岸の両氏は自分たちの野望を諦めます。

そしてとりあえず、鳩山内閣は(吉田首相が積み残した)ソ連との国交回復を実現します。

一方の岸内閣は、(吉田首相が呑んできた)不平等条約=日米安保条約の改定を目指すことにしたのです。


このとき岸氏が担当した 1960年の日米安保改定にたいしては、大学生を中心にものすごく大きな反対運動が起こりました。連日、国会前に多くの人が集まり、大規模な反対デモが起こったのです。いわゆる安保闘争ですね。

しかし実際には、この改定は日本にとって極めて好ましい方向の改定でした。


吉田首相が結んだ安保条約は「アメリカは事前協議もなく、日本を基地として使える。でもアメリカには、日本を守る義務はない」というヒドイものだったのにたいし、

岸氏は、「少なくとも事前協議は必要。それに、日本は基地を提供するから、アメリカは日本を守ると明確にしてほしい」と主張し、条約を改定します。


国会周辺に大量に集まり、「安保改定・絶対阻止!」と連日デモをしていた若者達は、こうした条約改定の中身や意義を正確には理解していませんでした。

というより彼らが反発し嫌悪していたのは、「もともと戦犯だったのにいつの間にか首相にまでなり、古い日本を復活させようとする岸信介個人」であって、条約の中身ではなかったのかもしれません。

だから安保条約が改定され、岸内閣が退陣すると、デモは潮が引くように消えてなくなったのです。


★★★


その後の池田勇人首相は、吉田茂氏の「軍備はアメリカに任せて経済復興に専念」路線を引き継ぎ、「所得倍増計画」をぶち上げます。

この掛け声に応じて日本人はめちゃくちゃ働き、短期間で先進国の仲間入りができるほどの経済復興を成し遂げました。

このとき経済発展の原動力になったのが、昨日までは国会の周りでデモをしていたのに、岸首相の退陣後は一転、“会社人間”となって朝から晩まで働き始めた当時の若者達だったのです。


なぜ政治の季節がいきなり終わり、経済の季節になったのか? 
それは、国の未来を決める重要な政治論争に、この時点で決着がついたからです。


戦後、1960年の岸首相の退陣の時点までは、「日本はこれから、どういう国を目指すべきなのか」という議論に結論がでていませんでした。

戦後すぐの日本には、 3つの「目指すべき国の姿の選択肢」があったんです。それは、

a) 明治政府が富国強兵により実現を目指した、欧米列強と肩を並べる世界有数の強国 =天皇をトップとし、陸海空軍を備えた強国、三島由紀夫が求め、岸信介や鳩山一郎が作ろうとした国


b) 社会主義国家  左翼政党はこの時期、本気でこれが実現できると思っていたし、米国もそれを本気で心配していた。当時は、現実的な選択肢でした。


c) 軍備はアメリカに任せ、戦後処理以外の外交も一切やらず、ひたすら経済復興に邁進する通商経済国家 (吉田茂の主張)


1960年、
a) を目指していた鳩山・岸内閣が倒れ、
b) を目指していた左翼政党もレッドパージや反共政策にやられて“万年野党”となり、
c) を掲げる吉田派の池田勇人内閣ができた時点で、
戦後日本の「目指すべき国の形」論争には決着がつきました。


日本は「経済国家を目指す!」と決まったのです。

目標が決まってないとデモも起こるけど、いったん目指すべき方向が決まったら一丸になって頑張るのが日本という国。

この後は池田内閣が経済成長実現のための政策を次々と打ち出し、国民も「豊かになるためにひたすら働く」生活に没入していきます。


★★★


こうして経済発展を成し遂げた池田氏の後を引き継いだのが佐藤栄作首相。

「経済復興は成し遂げられた。オリンピックを成功させ、OECDにも加盟し、日本は先進国の仲間入りをした。いまこそ、残っている戦後処理を進めなければ!」と考えます。

残った戦後処理のひとつが、「吉田首相が諦めた全面講和=西側先進国以外との国交回復」です。


そこでまず、佐藤首相は韓国との国交回復にこぎ着けます。

続けて、アメリカから沖縄を返還させました。

「沖縄が戻ってくるまで、日本の戦後は終わらない」といった彼の言葉は有名です。

また、経済成長優先のためにあちこちで問題化していた公害被害にも手対策を打ち始めます。


沖縄返還を花道に退陣した佐藤氏のあとを引き継いだのが田中角栄首相。

当時、経済成長が実現していたのは都市部だけ。

新潟の貧農の生まれだった田中首相は、都市部に比べて復興の遅れていた地方経済を底上げするため“日本列島改造計画”や“国土の均衡ある開発”という経済政策をぶち上げました。

当時の日本は、上海や北京、沿岸部だけの経済発展でなく、地方の貧困に取り組み始めた今の中国と同じステージだったのでしょう。

さらに、戦後処理の一貫として、中国との国交を回復。

これで吉田茂氏が積み残してきたソビエト、中国、韓国との国交樹立が実現し、沖縄も返還され、日本の戦後処理にひとつの区切りが訪れます。


しかし、積み残された課題もたくさんありました。


まずは、経済復興を優先して国防をアメリカに任せたため、日本には多くの米軍基地が残りました。その大半は沖縄に集中しています。これが、今の基地問題の源です。

安保条約を結ぶときも沖縄返還の時も、日本は沖縄の基地問題に目をつぶること(沖縄だけに犠牲を押しつけること)で、安全保障を確保、経済成長に専念できる体制を手に入れました。

これが、沖縄の人が「沖縄は戦前と戦後、二回、日本に見捨てられた」と感じている理由でしょう。

(この件については天皇の意向を含め、衝撃的な内容が冒頭で紹介した本に書かれてますので、興味のある方は本を読んでください。)


また、ソビエトとは国交回復はできましたが、平和条約の締結はまだできておらず、北方領土問題が残されています。


朝鮮(韓国・北朝鮮)との関係においても、朝鮮戦争で疲弊しきっていた韓国の弱みにつけこみ、国民から支持されているとは言い難い軍事政権に一時金を払うことで、

「今後いっさい戦後補償を求めない」と約束させてしまったことは、今も続く慰安婦問題や強制労働の賠償金問題などにつながっています。


中国との国交回復では、中国側が戦後賠償を放棄しました。その代わりに日本は多額の ODA を続けることを約束します。

中国が日本の ODA にほとんど感謝しているように見えないのは、「あれは受け取って当然の賠償金ですからね」ってことです。

中国側と田中角栄氏はこのとき、尖閣諸島問題も棚上げすると決めました。

そんな小さな島について長々と話し合うより、国交回復を早期に成し遂げるほうが、余程大事だったからです。

この大英断により日中関係は劇的に改善し、その後の“持ちつ持たれつ”による経済発展が両国で起こります。


この時の「尖閣列島問題は棚上げする」と決めた田中角栄氏の優れた政治センスと、

そのおかげで戦後まったく問題となっていなかった尖閣列島を突然、思い出したかのように「東京都が買う」と言い出して国際的な大問題にしてしまった石原慎太郎元都知事のひどい政治センス

の間には、驚くほど大きな差があります。

これが「歴史に名を残す首相となった政治家」と「国政ではまったく成功せず、都知事にしかなれなかった政治家」の器の違いでしょう。


また、長年にわたり国防と(戦後処理以外の)外交を棚上げし、経済復興だけに集中してきたため、日本の外交能力は全く鍛えられることなく、ここまで来てしまいました。

これも、1960年に選んだ道(=外交も再軍備もしない! 経済復興だけに集中する!と決めたこと)からでてきた派生課題のひとつでしょう。


さらに、最初は日本を徹底的に民主化しようとしていたアメリカも、冷戦が始まったことで方針を転換。日本の民主化は極めて中途半端な形で放置されてしまいました。

アメリカは当初、軍国主義日本を支えた大日本帝国の官僚を全員まとめて公職から追放しようとしてたんです。

ところが、行政運営能力の高い人を全員、追放してしまうと、そうでなくても戦後で混乱してるのに、ますます国が混乱する。

そうなると、冷戦の狭間、餓えた庶民の不満が高まり、社会主義革命への呼び水になってしまう。

そう怖れたアメリカは、「共産主義よりは、戦前の官僚統制システムの方がマシ」と考えを変えてしまったのです。


この結果、日本では、戦時下の国家総動員体制を作り上げた官僚統制システムが解体されず、

グローバル競争時代には全く通用しない「計画経済的で中央集権的な霞ヶ関主導の国家運営体制」が、今に至るまで残ってしまっています。


これはホントに残念なことでした。

とはいえ見方を変えれば、政治家はここに書いているような(独立や沖縄返還や戦争相手国との国交回復など)大きな戦後処理問題にのみ専念し、

細かい制度設計や経済運営は官僚がすべて粛々と担当する、という役割分担があったからこそ、焼け野原の日本は、早々にここまでの復興を遂げられたのかもしれません。


そして最後がこれ → アメリカが冷戦開始後すぐに求め始めていた再軍備を、日本は何十年もの間、断り続けてきました。

そのために使ったのが、「日本はまだ貧しいので、軍備なんかに手をだしたら経済復興が進まない。生活が苦しくなると国民の怒りが高まり、社会主義革命が起こってしまうかも。そうなったら、アメリカさんも困るでしょ?」というロジックでした。


しかし 1990年代、最初のイラク戦争が起こった頃からはアメリカも
「あんたらもう十分、復興したでしょ? いったいいつまで経済に専念するとか言うてるわけ? もう日本が共産化するなんてありえんし。そろそろ西側諸国の一員として、応分の負担をすべきでしょ?」
と言い始めました。

バブル経済を謳歌した日本は、すでに世界第二位の経済大国になっていました。
日本の電気製品や自動車はアメリカ企業が苦境に陥るほど売れていたし、
NY では日本企業が次々と巨大なビル(不動産)や米国債を買いまくっていました。

「もうそろそろ一人前になってくれ」と言われるのは、あたりまえっちゃ当たり前です。


それでもアメリカの要請を日本はノラリクラリと避け続けてきました。

とはいえ、1960年代の日本が選んだ「目指すべき国の形」、すなわち
「外交も軍事もアメリカに任せて、ただひたすら経済発展を目指す国」は、
既に日本の目指すべき国の形としては、完全に賞味期限切れであることも、また自明でした。


安倍政権が今回やろうとしている安全保障法制の整備は、さすがにそろそろ日本も独立した大人の国として、応分の負担をすべき時期だろうという判断でもあり、
また、
「戦後に仮決めした日本の目指すべき姿」が完全に時代遅れになってしまったので、ここでもう一度、設定しなおそうという流れの中にある話なのです。

a) 明治政府が富国強兵により実現を目指した、欧米列強と肩を並べる世界有数の強国 =天皇をトップとし、陸海空軍を備えた強国、三島由紀夫が求め、岸信介や鳩山一郎が作ろうとした国


b) 社会主義国家  左翼政党はこの時期、本気でこれが実現できると思っていたし、米国もそれを本気で心配していた。当時は、現実的な選択肢でした。


c) 軍備はアメリカに任せ、戦後処理以外の外交も一切やらず、ひたすら経済復興に邁進する通商経済国家 (吉田茂の主張)


前述したように、 c はもはや、今の日本に許される(選べる)路線ではありません。

c は「戦争でボロボロに負けて焼け野原になった弱小国が、巨大な共産国に狙われていたから仕方なく許されたモデル」だったのです。


今、安倍さんの目指している国の姿は(言うまでもなく)a です。

吉田首相が選んだ c 路線の賞味期限が切れたので、安倍総理の母方の祖母である「岸信介」が望んだ a 路線に移行したいと考えてるわけですね。

中曽根首相の「戦後政治の総決算」もそうなのですが、自民党のタカ派と言われる首相はみな、基本この a を国作りの目的と考えています。


一方、昔の野党は b を目標として掲げており、当時はそれも現実的な選択肢でした。

けれど今の日本では、b は現実的なゴールにはなり得ません。

なのに野党はまだ b に代わる「目指すべき国の姿」を示せておらず、「安倍首相が目指す a に反対する政党!」に成り下がってしまっています。


★★★


それにしても、
こうしてみると今の日本が抱えている、

・沖縄の基地問題
・ソビエトとの北方領土問題
・中国との尖閣諸島問題
・韓国および北朝鮮との戦後補償問題
・アメリカとの集団自衛行動を可能にするための安全保障問題
・日本の外交下手問題
・中央集権的な官僚による国家運営体制から脱皮できず、経済が停滞している問題

などはすべて、“戦後復興の中で解決できなかった積み残し課題”だとわかります。


もちろん、戦後の政治が間違っていたのでも、サボっていたのでもありません。

日本政府はその時点その時点で、もっとも日本の国益にかなう正しい選択をしてきました。だからこそ、長らく自民党は政権与党の座を維持できたのです。


ただ、問題が余りに大きかったため、すべてを一気に解決することはできませんでした。

そのため、優先順位の低い問題や、そこにこだわると前に進めなくなるような複雑な問題は先送りし、現実的に“実を得る”判断をしてきたのです。


それは責めるべきことではなく、褒めるべきことであり、感謝すべきことです。

そして、残された問題をひとつづつ解決してくことは、これからの時代を生きるわたしたち国民の務めだと考えるべきでしょう。


80年前、私たちの国は、ものすごい愚かな戦争に突入しました。

そのツケは 70年たった今でも払い終えられていません。

今もまだこの国は、(そして私達は、)延々と続く戦後処理のさなかにいるのです。

★★★

今日は戦後内閣の歩みについてまとめましたが、下記の本からはそれ以外にもたくさんの学びがありました。戦後日本の歴史に興味のある方は、ぜひ一度、読んでみてください。



そんじゃーね!

分厚い本なのでキンドル版をお勧めします!

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