すごく古い映画を観ました。新藤兼人監督の“絞殺”。
いつ頃の映画なんでしょうか。かなり古そうでした。白黒でした。すでに乙羽信子さんが主演で、二人以外は新人と友情出演の人が一人だけ。ほとんど新藤監督と乙羽さんのお二人の手作り作品、って感じです。
悲惨なテーマの映画なんだけど、むしろお二人のお互いを見守る視線の暖かさみたいなものが残る映画でした。
ちきりんの好きな映画は、詩的な感じの映画です。メロディが聞こえてくる感じの映画、かな。新藤監督は映画も好きだし、監督の生き方も好きです。乙羽さんとの関係や映画等についてインタビュー等で語っている言葉から、すごく悩み深いものがほの見えて強く共感を覚えます。
外国映画だとフェリーニとかジム・ジャームッシュとか好きです。あと、マルグリット・デュラス的な世界も好きです。デュラスの映画のラマンのDVDが欲しいんですけど、出てないみたいで残念です。昔六本木俳優座で夜中に見ていて、ほとんど夢遊病者みたいになって映画館を深夜に出てきて・・・結構やばかったです。
簡単なようで簡単でない。やっぱり芸術家ってすごい、と思います。
映画とか絵画とか、いいものって“迫ってくる”ものがある。作り手の魂が見る人を襲ってくる。こういう力を“映像や文章”に込めることができるのはすごい才能です。まさにタレントですね。
ちきりんは“人間のどうしようもない醜さ、愚かさ、ドロドロさ、馬鹿さ加減”が好きです。社会には頭に来ることが多く、ちきりんはそれらを毎日日記に書いているわけですが、制度の後ろには個々の生活がある。そちらにカメラを向ければ、社会制度の問題点は、一転人間ドラマの世界になる。それは何を意味するか。
エフェソス(トルコにあるローマ遺跡)の図書館の遺跡の前の歩道に、彫刻のあるタイルがあります。その歩道タイルには、“売春宿はこちら”という案内が書いてあるんです。で、そちらに歩いていくと、ローマ遺跡独特のすごい荘厳な作りのライブラリー(図書館)がある。
で、ライブラリーの入り口を入ってすぐに曲がると売春宿。笑えます。ローマ人も、そういう店に行くのが恥ずかしく、図書館に行くふりしてそういうところにいけるように裏道を作った。で、こっそり歩道のタイルに(めだたないよう)案内看板を書いた。
これは何を意味するか?ローマ時代なんて、女性に参政権はありません。奴隷もいました。すなわち、普通の市民として認められるのは一部の“男性・ローマ市民権をもつ人”だけなんです。なんで彼らが他の人の視線を気にしてそんなにこそこそしなければならなかったか?彼らが恥ずかしかったのは他人の目ではない。神の目、というと宗教的ですが、まあ、自分といってもいい。“人間として恥ずかしい”という気持ちがあったということでしょう。
つまり、人間はあの時代から全く変わっていません。私たちは全く進歩しない。進歩するのは技術であって人間ではない。反対に言えば、人間には普遍的なものがある。だから数千年前の遺跡、数百年前の絵画、数十年前の映画が、現代に生きる私たちの心に訴えかけることができる。
ちきりんは、“進歩しない人間”というのが大好きです。私たちは怠惰でずるくて身勝手だ。だから人生は奥深く楽しい。しかし、それが制度化されてできあがる社会の“わけわかんないこと”には、やっぱり声を大にして異を唱えていきたい。
進歩はしないとわかっているのに、進歩を望む。この矛盾を共存して受け入れることができるところが、人間のおもろいところ。
ではまた明日