変わる常識

常識とか先人の知恵と言われるものの中には、ずっと有効で変わらないこともある一方、世の中の変化に伴い、通用しなくなってしまうものもあります。その見極めは、簡単ではありません。

身近な例では、料理の常識なども、変わってきています。

昔、私が母に料理を習った頃は、“卵は一つずつ小さな入れ物に割って、血が混じっていないことを確認してから大きなボールに移すよう”教えられました。

でもね。

実際に血の混じった卵を見たことは、私には一度も無いんです。

だって母が若かった頃とは“卵のデキ方”が変わってしまい、最近はもう、そんな卵は流通していないから。

昔はコケコッコ−!って言いながら、庭で飼われている鶏から生まれた卵が、世の中に出回っていました。

流通段階での温度管理も完璧ではありません。有精卵だから、途中で孵化が始まって血が混じるものもあったわけです。

でも今は、鶏舎のブロイラー的な育て方の鶏から生まれた卵だし、流通の温度管理もしっかりしてます。血がまじる卵なんて、ほとんど無いんです。

だから現在では、複数の卵を割るとき、わざわざ二つの容器を汚す必要はありません。


それに昔は、卵は贅沢品でした。

血が混ざった卵ひとつのために、複数の卵が全部使えなくなるのは大きな問題(食料が無駄になる!)だった。だから用心したんです。

でも今や、卵はそこまで贅沢品でもないし、そんな卵があれば、購入したスーパーに持っていけばすぐに全品、交換してくれる。

この卵の割り方って“今や常識ではなくなった、過去の常識”の代表例だと思います。


こういう“仕組みがあきらかに変わった“と説明できることは、比較的わかりやすい。

でも“社会的な常識”は、いつの段階で変わったか、はっきりせず、とてもわかりにくい。


大学くらい行くべきとか、親の面倒は子供がみるべき、会社にとって社員は家族、もっと言えば、“働かざる者食うべからず”的な発想も、今や常識なんだかどうだか、よくわかりません。


インドのカースト制度は、法律でも差別が禁止されてるけれど、田舎の農村では、まだ根強く残っていたりします。

一番下のクラスに生まれたら、家政婦の仕事についても、トイレと床の掃除しかさせてもらえない。

お皿洗いはそういう不浄な人たちに任せてはいけない、などという話も聞きます。


そんな慣習がまだ色濃く残っている田舎の村で、男子が産まれると「子どものうちになにかしら障害をつくっておく」ことがあるそうです。

たとえば右足の膝から下を切ってしまうとか・・・。

母親が子供への愛情から自分の息子の右足を切り落とすなんてどういうこと??? 

と思うでしょ? でもね、そこには子を思う母の愛情があるんです。


「こんな身分で生まれたら、施しで生きていくしかない」と考えた場合、女の子なら、乳飲み子を二人ほど抱えて道に座っていれば施しが受けられる。

でも、五体満足の男の子は施しが集めにくい。

どうせ仕事にはつけないなら、施しが受けやすい状態(わかりやすい障害のある体)にしておいてやるのは、親の愛情である、ということなんです。

だから“わざわざ”自分の子供に障害をつくる親がいる。


この母親の常識は“自分の時代の常識”です。

今や、インドでそういう立場に生まれても、カリフォルニアに移住して、才能があれば世界的なIT企業の経営者になれる時代です。

でも、そんなことは 30年前のインドの貧村では想像もつきません。

だから“自立して生活する力”を子どもに付けたいと思う母親のやることは、“子供に障害をもたせること”なのです。

なんだか悲しくなってしまいますよね。


でもこの話を、必ずしも“ばかばかしい”と笑ってもいられない現状が、日本にもあります。

夜遅く塾から帰ってくる子ども達を見ていると、私は同じ感覚に襲われます。

あの子たちの親は、「高い学歴のある人が、そのことが主要因で出世したり、高い給与を得たりするものだ」という常識を持っているのでしょう。

だから、子どもにもその力をつけさせてやろうと、時間とお金を投資して塾に行かせているのです。


でもね。

この親の時代の常識は、その子ども達が社会に出る頃にも通用する常識として残っているでしょうか?


団塊ジュニアの一年分の人数は 200万人を超えていますが、今の 18才人口は既に 150万人、今年生まれる子の数は 120万人を切っています。

一方、子どもの数が 200万人から 150万人に減少した同じ期間に、東大の定員は 1割減った程度、早稲田など主要私大の定員にいたっては、むしろ増加しているんです。

今でもすでに、親世代の頃に比べて大学に入るのは超簡単になってるわけで、いわんや 10年後をや、です。

若者人口が 200万人から 120万人にと6割になっても、大学(の定員)はそこまでは減りません。(これは、学生の頭数にたいして国の補助金が支払われるからです)


「学歴がいい人が安定した収入を得られる」というこれまでの常識だって、成立しにくくなっています。

多くの優秀な学生が就職した一流企業が潰れたり、リストラを続ける現実を、私たちはたくさん見てきました。

これからはもっとそういう傾向が顕著になるでしょう。

であれば、塾に行く時間に、違う学年の子達と遊ばせておくとか、ネットでもゲームでもなんでもいいから自分の好きなことに熱中させておく方がよほどよかった、ということに、なるかもしれない。

もちろん余裕があるならいいです。

でも生活費を削ってまで、子どもの塾代や私立学校の学費を払い続けるという投資は、たぶんもう、回収できないのでは? と思います。


今でも、まだこの常識は根強く残っています。

「成績をよくして一流大学に入れて一流企業に就職させることが、子どもの幸せの基礎になる」、ちきりん的には既に常識ではないと思うけど、親はよかれと思っている。

日本で親が子供を“塾に通わせる”のも、インドの貧村で親が子供の“右足を切り落とす”のも同じ。

悲しく深い、親の愛情です。


というわけで、常識の変わり目を見つけるのはホントに難しい。

私だって今も、なんらかの“消えゆく常識”に基づいて、頑張っている部分もあるのでしょう。

他人ごとではありません。でも、人間ってそういうもんです。

将来予測より、実体験に基づく過去の事実はすごく影響が大きい。

私たちの多くは過去に縛られた生き物だから。



ではでは


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