無知なる者の幸せ

あるシニアな人と仕事の話をしている時、ちきりんがごく常識的なことを知らなくて、その人が教えてくれた。ちきりんは「ああ〜なるほど、そうだったのかあ!」と驚いた。その時、その人がしみじみと言いました。

「幸せだよなあ、なんにも知らない奴は。知る喜びがあって。」

・・・まあ、皮肉っちゃ皮肉ですが、前向きに考えればその通りです。無知であればあるほど、知る喜びがある。ちきりんが、それを初めて知った時にすごくうれしかったこと、というのを今日は挙げて見ます。

★★★

昔から不思議だったこと。それは、何か事件が起こって警察官が犯人に対して発砲した時にマスコミが言う、「○○県警は、発砲は適切だったと発表しました」というコメント。

犯人は、交番を襲撃してピストルを奪おうとしたとか、覚醒剤でラリって繁華街で包丁を振り回したような人なんです。ちきりんに言わせると発砲する正当性なんて報道する意味もないほど明白なケース。

なんでわざわざ「発砲の正当性」を報道する必要があるの?正当に決まってるやん、躊躇するなよ、そんなもん。と思っていた。何年も何年も不思議だな〜と考えてきた。

これが理解できたのは、過激派系の話に関心をもったことがきっかけです。「そうか、戦後から何十年かは、警察が正しいのか、投石してるゲバ隊が悪いのか、なんとも言えない時代だったんだ」と知って、初めてこの報道の意味が理解できた。

しかも過激派系のサイトを見て、警察(公安)がやってることを見ると、「これ犯罪じゃない?」みたいなことを警察も相当やっているんだな、ってわかる。

やくざの抗争みたいなもんで、どっちが悪いとも言い難い、ってところがあるわけ。そうすると、拳銃を持っている側が発砲することが世間の理解を得られるのか?という問題が常につきまとう。

そういう時代が、日本には長くあった、ということなのね。「発砲までしなくても。あいつらも社会をよくするために頑張ってるんだし」というような雰囲気が、浅間山荘事件の後の仲間殺し発覚までは社会に存在した。浅間山荘事件の映画みても、そういう警察の空気はびしびし伝わってくる。


でも今はそういうケースはほとんどない。ラリって道で包丁振り回してる人に発砲するのは全然悪くない。しかも、ある事件では既に誰か犠牲者(包丁で斬りつけられた)がでてたのに、そういうケースまで、発砲の正当性を言い訳する警察の杓子定規なやり方は笑えます。(報道するマスコミ側も同じ)あんたら、ちょっと組織、硬直化しすぎだってば、と言いたくなります。

これを逆手にとられて、やくざや中国系犯罪者なんかには、「日本の警察は発砲しない」と開き直られている。明らかなケースはどんどん撃ってくれ!殺す必要はないよ。足とかちゃんと狙って撃てるよう練習してくださいな。

明らかに撃つべき時と、そうでない時の判断さえ個人がしてはいけないような、そういう「組織だけが判断する」という警察組織の体制こそが、実は一番危険だと、ちきりんは思うよ。

まあ、いずれにせよ、長く疑問に思ってたことが解決すると非常に気持ちよい。「無知なるものの幸せ」をかみしめているちきりんである。

★★★

やくざって、なんで存在してるんだ?ってのも、ずうっと考えててよくわからなかったのだが、今回、山口組三代目の本読んでよくわかりました。

戦後のどさくさ時代において、警察も政治もやくざを「手下」として使ってきたんだよね。だから、必要だったし、勢力が大きくなった。

第一次安保の時なんて、警察から山口組に「出動要請」とか「配置指示」まで出てたんだって。そりゃあ、大きくなるわな。(ちなみにこれ、今、アメリカがイラクの軍隊と警察の訓練をしてあげてるのと似てる。あんたらテロを育ててるだけだよ、という感じだ。)

もっと早く本読めよ!とも言いたくなる(でしょ?)だって、本読んだらすぐわかることを、うんうん考えてて数年、ってのは非効率。

ちきりんは、「教えてもらう」ってのがキライなのかな?なぞなぞとかの時に、「自分で考えるから、(答え言うの)待って!」という方だ。

でも、知識も仕入れずに自分で考えて、とてつもなく笑える(間違った)結論にたどり着くこともある。やっぱ本もちょっとは読んだ方がいいと、今回あらためて思いました。このこと自体、もうちょっと早く気が付けよ、って感じだが・・・


これ大事なことなんだと思う。学ぶのか考えるのか、っていうバランスね。全部学んでいたら、自分で考えなくなるでしょ。それは思考停止だし、すごくコントロールされやすくなる。意図をもってあることを教えようとする団体や人が存在するからね。

でも一方で、学ぶ努力をおろそかにして自分だけで考えていればいいかというとそうではない。とても独善的になる可能性があるし、とっぴょうしもない誤解をすることもある。「学びと思考」にはゴールデン・レシオがある。

ちきりんは「思考」側にかたよりすぎで学びが少ないし、世の中には「すごい勉強している」けど、自分で考える癖が既に消失してしまっている人もいる。気を付けましょう、お互いに!って感じだ。

★★★

今、抱えている中で一番ホットな課題は(ちきりん的にホットってことね)、「性別ってどう定義するべきなのさ?」ってことです。最近、性の不一致症とか言うの聞くでしょ。「女なんだけど、体が男に生まれてきました。」って人ね。今は「病気の一種なので、治療の一環として、女性に性転換できます」みたいな話になってるんだよね。

これが、どうも、ちきりん的にはどうもよくわかんないのよ。これが通るなら、「自分が女だと思えば、女。男だと思えば男」ってことでしょ。ところが、ちきりんは生まれてこの方、自分を男だと思ったことはない。その唯一の理由は「体が女だった」ってことなのよ。これ、変でしょ?

ちきりんは、体が女だったから、女だと思ってた。でも、もしかしたら、違ってるかもしれないのか?ちきりんは実は男なのよ。でもね、「女の体してるから、てっきり女だと思ってたよ〜。いやー気がつかなかった。失敗失敗。」っていうようなことが起こりうるという話にもなる。ほんとか〜??

ところが思春期に初めて「自分は男だ」とか「女だ」とかわかるんだとすると、定義は「自分がどう思うか」ではないのよね。つまり、「男の人に心ときめく。だから私は女だ」という定義になる。反対も同じ。


整理すると、「男か女かはどう判別するか」という問に対して3つの答えの案がある。
(1)からだが男なら男。からだが女なら女。
(2)自分が男だと思えば男。女だと思えば女。
(3)男に性的魅力を感じれば女。女に性的魅力を感じれば男

でも、どうもしっくりこない。

ずっと(1)だと思ってたんだけど、違うらしいとわかってから、ちきりん混乱している。(2)はあまりに主観的だし、そもそも、WHY男だと思うのか?っていうのが解明されないと、答えにならない。

(3)も変だと思うんだ。だって、ゲイの人=性不一致症じゃないんだよね。男が好きな男、女が好きな女もOK(あり得る)とされているみたいだから。じゃあ、いったいなんなのさ??

遺伝子工学とか進むとわかるのかもしれない。ある人は、遺伝子のある部分に「男です」ってかいてあるんだけど、体の形を作る部分の遺伝子に「女の体を作れ」とか書いてあるってわかるとかね。そうなると、性別をどう定義するかは明確になる。

「遺伝子のこの部分に書いてあるのが、性別なんです」って言えるからね。でもホントにそういうもんなのか??よくわかんない。

まっ、こういうのもちゃんと書いてある本とかありそうだ。


つーわけで今日はここまで。