うつろひ

ちきりんは、「うつろう」、「うつろい」という概念が好きです。辞書では意味として「移り変わること」と書いてあり、例として「心のうつろい」「季節のうつろい」があげられています。


「変わる」と「うつろう」はどう違うのでしょう?

心や季節は信号とは違います。信号は赤から緑にうつろったりしません。「変わる」だけです。一方、心や季節は「変わる」こともあるけれど、「ううろう」こともあります。その違いは、

(1)変化のスピードが違う。「うつろう」方がゆっくりな感じがします。
(2)変化は「同じ方向に着実に動いていく」感じだけれど、「うつろう」は、二歩進んで一歩戻りながら進んでいくイメージです。

また、
(3)「変わる」は中立的な言葉だけれど、「うつろう」には消えゆくモノへの郷愁や、変わってしまうことへの複雑な思いなど、なんらかの感情が込められています。


よく言われることですが、私たちが桜や紅葉を愛でるのは、それらが恒常的に存在しないからです。最近の懐古ブームも同じで、昭和30年代の情景は今はもう無くなってしまっているからこそ、多くの人がそれを懐かしく感じ、癒されるのです。

そういった、季節、時代など、消えてしまったものへの肯定的な思いを表すのに便利な言葉が、「うつろう」という言葉です。


さらに極端なことを言えば、変わらないものは美しくない、とも言えます。

たとえば、汚れたり割れたりしながら、ゴミとしていつまでも残るプラスティックは、美しいとは言い難いでしょう。同じように「変わらぬ愛」も、プラスティック的です。芽生えて、盛り上がって、冷め、そして消えていく。だからこそ人の気持ちは美しいのです。

そうとなれば、「変わらぬ愛」という言葉は矛盾を含んでいるだけでなく、美しくないとも捉えられます。人が「一生あなたを愛している」と言われて感動するのは、それが、あり得ないからでしょう。

「ありえないかもしれないけれど、今の自分は敢えてそう明言したい」という気持ちを、私たちは美しいと感じるのであって、「一生愛してる」と言ったが最後、必ずそうなる「ロボット的な世界」が存在するならば、愛なんて特別なものにも美しいモノにもなりえません。変わらないものには、一種の嘘くささがつきまとうのです。


★★★


また、若い頃と年をとってからでは、「うつろう」ものへの受け止め方も違ってきます。直線的な「変わる」と、ウロウロしながら少しずつ前に進む「うつろう」を比べると、若い時は直線的な動きを効率的だと考えます。一方で、ウロウロすることは無駄と捉えられがちです。

「変わってしまった自分」に忸怩たる思いを抱いて後悔したり、変わってしまった何かに裏切りを感じたり、時には憎悪するのも若い頃の特徴です。

ところが年をとると、うつりゆくプロセス自体への肯定的な感情がでてきます。それは、一定の年齢になれば人は誰でも、人生のうつりかわりを自身が体感するからです。変わりゆくこと自体が生きていくことだし、年を重ねることだと気がつくのです。


ちきりんは「うつろう」という概念が大好きで、「変わらない愛」より「変わってしまう愛」に、より大きな共感を感じます。不老不死より、生まれて、生きて、死にゆく人の一生を美しいと感じます。

どうしようもない自然の大きな動きに挑戦する人間の試みは、常にはかなく美しいものです。私たちの気持ち、そして人の一生は、変わるのではなくうつろいます。そしてその「うつろい」をこそ楽しみたい、と思います。


ではまた明日。