画一性の醜

先日、“特急スーパーはくと号”に乗りました。とてもかっこいい特急です。あまりに素敵だったのでネットで調べてみたら「今は特急が一番かっこいいんだ!」とわかりました。

昔は超長距離の寝台列車(電車)や、もっと前ならSLもあったのでしょうが、今はいずれもほとんど走っていません。でも特急はそれなりに残っていて、どれもかっこいい。というわけで、にわか鉄道ファンになってしまったちきりんです。


この“スーパーはくと”は、鳥取から京都まで走っている特急で、はくと=白兎です。因幡の白ウサギですね。倉吉始発で鳥取を経て瀬戸内側へ。その後、姫路、神戸を経て大阪、京都まで。鳥取から大阪まで2時間半です。

ちなみに鳥取は「カニが一番お得」と言われる場所です。日本海側はどこも同じようにカニが水揚げされますが、越前という名前がついたり、京都や兵庫県北部の老舗温泉街で食べると、それだけで同じカニでも値段が(時には倍近くにも)高くなります。

岡山から大阪あたりの間に在住の人なら、2時間ほど特急に乗って鳥取の温泉でカニ食べ放題にするととてもお得です。

★★★

そのスーパーはくとが非常に良い感じだった理由のひとつは、“乗客の多様性”です。そこには、出張のビジネスマンあり、帰省の親子づれあり、温泉客グループあり、通勤・通学の人あり、病院に通うお年寄りあり、と乗客が非常に多様なのです。

それを見て「これ、新幹線とすごい違うなあ」と思いました。

特に東京〜新大阪間の“のぞみ”に乗っている乗客の“画一性”といったら驚くほどです。大半が「働くおじさん」です。年齢の幅はあるけど、見た目みんな同じ。乗り込んだ瞬間に「あれっ、これってサラリーマン専用車両?」と思いそうになるくらい、乗っている人の服装や雰囲気が同じです。


そういう新幹線に乗る機会の多いちきりんなので、今回スーパーはくとに乗って、その客層の多様性にとても新鮮な印象を持ちました。とくにこの路線は日本海側と瀬戸内側の両方を走り、その間に山間部も走ります。過疎地域から大都市圏まで走るわけで、ずっと乗っていると本当に“様々な日本”が見られました。

ですが、反対にこうも思いました。「でも顧客が画一的であった方が、きっと儲かるんだな」と。これ実は、たいていのビジネスにおいて、そうなのだと思います。

“画一的”ということは“効率がいい”ってことなのです。画一的な人達は同じようなものを求めます。だから同じサービスで皆が満足する。のぞみなら“早く頻繁に走らせる”だけです。後はせいぜい“社内でネットが使いたい”くらいでしょう。ビジネスマンのニーズが画一的だから、供給側もそこに特化すればよい。こういうビジネスはとても効率がよいです。

一方、いろんな客がいるとコストがかかる。「遅くてもいいから値段安い方がいい」とか「景色が見たいから窓を大きく」とか。「皆でお弁当食べられるよう、座席が回転するように」とか言い出すと、維持にもマーケティングにもコストがかかる。儲かりにくくなるんです。


でもスーパー白兎に乗った時、その心地よさから、瞬間的にいつも乗っている“のぞみ”を思い出して気がついたのです。「画一的なモノってすごい醜いんだ」と。

気持ち悪いのです。本来いろいろであるべき人間が、商品のように扱われているような気になる。昔の軍隊を前線に運ぶ列車とかと同様に(←見たことないですけど)、東京大阪間の新幹線に乗ってると「仕事場に搬入されるサラリーマン」という感じがする。スーパーはくとの社内では「日本って豊かな国なんだ」という感じが漂っていてすごくリラックスできるのに、のぞみでは「日本は大変な国だ」という印象になる。


「似たような人を引きつける」のは儲ける基本なのだろうけど、最近は「同じような客しかいない場所」を“気持ち悪っ”と感じるようになりました。雑誌から抜け出してきたようなおしゃれな人だけが集まるバーも、反対に生活に疲れた人ばっかりの一杯飲み屋も、どっちも不気味です。

関西以西に多い郊外型のイオンのショッピングモールも、どこに行っても同じ雰囲気です。これはアメリカでもそうで、郊外型ショッピングモールはどこもかしこも酷似してるし、大都市のブランドメインストリートもどこにいっても「同じ店しかない」状態になっている。

日本も、80年代まで「日本中どこ行っても同じ」街作りがなされていたと思います。仙台にも盛岡にも札幌にも、“プチ東京”を作りましょう、という感じだった。

基本的にビジネスを追求すると、「同じテンプレートで大量に処理する」という方向にどんどん進んでしまう。そして、なんだか全く安らげない、気持ち悪い街やら電車やら店やらができあがる。


“多様性を捨てること”、“効率的であろうとし、画一性をとことん追求すること”で、私たちが失っているものは何なのでしょう?

それがよいとか悪いとかではなく、“何を失うと決めたのか”“画一性のために犠牲にされたものは何なのか”ということ自体が意識されていない。そのことに不安を感じます。

たしかにビジネスは画一性を追求すれば効率がよくなり利益率があがるかもしれません。でも、画一的な世界からは絶対に生まれないものもある。文化や芸術や自由な人間性の発露。

ビジネスの現場でも、「同じものを大量に生産する」には効率が大事でしょうが、画期的でクリエィティブな商品アイデアを生み出すためには、画一性より多様性が大事になるはず。

自分が他の人とは違うということ。皆が皆、同じではない、ということ。同じである必要もないということ。同じでないことを、各人が自由に表現できるということ。そういう環境からしか生まれないものもたくさんあるはずなのです。



どこで行っても似通っている郊外型ショッピングセンターでしか買い物を楽しまず、新幹線や飛行機での移動しかしない人は、何か特定の感性を全く刺激(育成)しないままを大きくなるってことなんじゃないかという気がするのです。


それともそんなことは、どうでもいいこと、心配の必要もないこと、なのでしょうか?



そんじゃーね。