ビクトリア&アルバート博物館

すばらしかった。

今日は半日お休みだったので、ウオーキングをかねて標記の博物館まで行ってきました。いやーほんと圧倒されます。この博物館は久しぶりに来ました。ほんと、すごいです。

何がすごいか文字で説明するの無理です。すみません。

昔は美術館で絵ばっかり見ていたちきりんですが、最近は工芸品が好きなんです。だから、この手の博物館はホントしびれます。入場無料だし。すごいな大英帝国。彼我の差を感じます。


ため息がでるというか、ため息しか出ないというか、ものすごい精巧な工芸品、たとえば大理石やら他の天然の素材を、釘一本で削っていって、こんなに細密な文様を一面に???みたいな作品を見るとですね、「これはいったい何人の人が何年かけたんだ?」と思うわけです。

もしも一人で作っていたら20年とかかかるだろうな、と思える作品がごまんとある。昔の人は40歳くらいで死んだりするわけで、文字通り、一生で一つの大理石の壷の模様を彫ってました、みたいな人生がありうるわけです。

その壷の完成を死ぬ前に見られるかどうかも不明だし、たとえ見られても、それを使う人の生活は全くしらないままだろう。(壷を飾るのは貴族で、彫るのは職人だ。)

あまりにもすばらしい数々の作品を見ていて思ったのは、「人間の人生より大事な工芸品」という概念だ。

反対に言った方がわかりやすいかも。「取るに足りない人生」「高級たばこ入れひとつにも値しない人間」「無尽蔵な、無価値な、労働力としての人間」の存在が、何百年、何千年も後の、博物館の観客達を感嘆させるために必要だということ。


つまり民主主義が芸術を滅ぼした、とも言える。「人間の価値は皆、平等」とか言い出すと、芸術には限界ができてしまう。独裁、絶対権力、想像を絶する格差、がないと、ピラミッドもクレムリンもタージマハールもルクソールも、存在し得ない。

虫けらの命が、夢のような宝を生み、何千年も後に、平凡な観光客達を、ほんのひととき感嘆させる。



芸術を「ひとりの人生の範囲」で決着させようとすると、その人が見られる範囲のものしかできない。祖父が土台を掘り、親父が柱を彫った。俺は瓦を焼くんだ。俺の息子が、みたいな、そういうスパンでみないとルクソール宮殿とか作れないじゃん。

現代芸術の多くは、その手間を機械と技術でカバーしようとするわけだが、これはまだ無理があるのだ。なんたって、機械は人の手なんかには全くまだ追いついてないからね。柱を積む作業なら、クレーンがあった方が楽だろうが、細密な文様なんて、機械の方が得意なわけではない。

技術もね、昔もすごいですからね。これも、今がすごく進歩しているわけではない。未だにピラミッドの設計図さえ書けないんだから・・

ちきりんは現代芸術も嫌いではないが、まだまだ「イマイチ」感があるのは、淘汰が済んでないということに加え、やっぱ「制作に奴隷が使えない」というのも大きいんだと思う。誰もが腰を抜かすくらい驚くようなモノを、一人で作るのは無理だ。


そういうことです。

んじゃね。