生きる姿勢について、昔の作家や哲学家などが残している名言の中で、あたしが強く共感した言葉をいくつかご紹介。
最も衝撃を受けたのは、フランスの女性小説家、フランソワーズ・サガンの「たとえ悲しくて悔しくて眠れない夜があったとしても、一方で嬉しくて楽しくて眠れない日もある人生を、私は選びたい。」という言葉です。
彼女は若くして小説が売れ大金を手にします。すると様々な思惑のある大人達が彼女の周りに集まってきます。
彼女はそういう人達とオープンにつきあい、時に無茶をします。
それにたいして“善良なる大人達”が彼女に忠告します。
「つきあう人を選びなさい。誰が貴女のことを本当に考えていて、誰が貴女のお金に引かれているのか、見極めてつきあうべきですよ」と。
そのアドバイスに対する彼女の回答が上記です。
騙されること、利用されること、傷つけられることをイチイチ怖がったり器用に避けて生きる必要はないでしょう。
それらを怖れて何もしなければ、楽しくて嬉しくてすばらしいことにも出会えないのだから。私がほしいのは“何も起らない平穏で退屈な人生じゃないのよ”と彼女は言っているのです。
これは本当にそう思います。
人生には、悲しいこともつらいこともあっていいんです。
だからこそ一方で、嬉しくて眠れないことも起こりえるのだから。
いいにしろ悪いにしろ感情を大きく揺さぶることが何もない人生なんて全くつまらない。
泣いたり笑ったり、怒ったり喜んだり、感情豊かに生きていきたい。彼女はそういう生き方を選びます。
他の作家の言葉で、「人生の傍観者になるな。観客席に座っていてはいけない。舞台にあがって自分の人生の主役を演じるのだ。」というのも同じです。
ぼーっと観ていると、人生という名のお芝居はいつのまにか終わってしまいます。
お芝居を観るのもそれなりに楽しいけれど、やはり主役として演じなければ本当の楽しさはわかりません。
観客席に座って、「ああ、オレは大学に行くんだな」「就職するんだ」「そうか、結婚するんだね」と、自分の人生をまるで他の誰かが演じているかのように観ていては生きる意味がありません。
生きるということは、観客席から立ち上がり、舞台に立ち、自分で自分のストーリーを決め、そのために振る舞うことなのです。
私がこれらの言葉を知ったのは大学生の頃です。
自分でも中学、高校、そして大学への進学には“当事者意識”が持てていませんでした。みんながそうするから、そういうものだから、大学生になっていました。
これらの言葉に出会い、強く思いました。
「自分の人生を傍観してる場合じゃない!」と。
そして、自分も人生において、飛び上がるほど嬉しいことを是非経験してみたいと思いました。
将来のために我慢して、準備して、危ない橋を避けて安全だと分かる途だけを選んでいたら、きっと「大失敗もないけど、飛び上がるほど嬉しいこともなかった」人生になってしまいます。
人生はいつ終わるかわからないのです。それは明日かもしれない。だから今こそ、自分の人生をおくらなくっちゃ、と思います。