自分基準

何かの行為や人を責める時、あなたは「なにを基準にして」責めていますか?実は人が何かを批判する時には、ふたつの異なる起点がありえます。


起点となりうるのは、

(1)あるべき姿
(2)自分

のふたつ。私たちは何かを責めるとき、無意識にどちらかを“起点”に選んでいます。

「それは、あってはならないことだ」というのは(1)のあるべき姿との比較で、「オレはそんなことは絶対しない。それは責められるべきだ。」というのは(2)の自分との比較です。“自分=あるべき姿である”という完璧な人なら、ふたつは“常に同じ”なのかもしれません。


この基準が非常に明確なのがマスコミです。マスコミが他者を批判する時は、その起点は常に「あるべき姿」です。彼らは自分達の会社に女性重役がほとんどいなくても、「企業は女性を公平に処遇すべきである」と書くことに躊躇しません。「学歴偏重はよくない」とか「採用の早期化が問題だ」という報道も同様です。

また、「正規社員と非正規雇用の人の待遇が違いすぎるのは問題だ」と報道する新聞社にもテレビ局にも、下請けや非正規雇用で、正社員とかけ離れた処遇をされている人はたくさんいるでしょう。だからといって彼らがそれを「仕方がない時もある」と報道することはありません。マスコミの批判精神の起点は常に「あるべき姿」であって、「自分が基準」ではないのです。


一方、「あるべき姿」を起点に責められやすい職業もあります。政治家や医者です。急に記者に囲まれて矢継ぎ早に質問され、うろ覚えのことを答えてしまい、それが間違っていた、などということは誰にも起こりうるのではないでしょうか?「自分を起点」で考えると責めたりできない。

でも相手が政治家となると、世の中の人の多くがそれを許しません。「いい加減だ」「意見がぶれる」と責めます。この視点は「あるべき姿」です。自分を振り返れば責められない場合もあるはずなのに、相手が政治家だと遠慮がありません。

医者もそうですよね。40年働いていて、仕事でミスしたことがない、という人はいませんよね。毎日なんらかのミスをしている人さえいるのでは?でもそういう人でさえ、「医者のミス」にたいしては「あるべき姿」と比べて「あり得ない。ひどい。」と責めます。

もちろん医療過誤はとんでもないですが、ミスが発覚した時に「あるべき姿と比較して責める」という姿勢の他に、「自分と比較して、高いプレッシャー下の仕事には常に一定のミスが起こりうることを理解し、その上で、今後どうすればいいかを考える」という思考も重要だと思います。


ちなみにちきりん個人的には、何かを責める時に“あるべき姿”ではなく“自分”と比べることが多いです。なので、たとえば多忙な中で凡ミスをした人の報道を見ると、責める前に「ああ可哀想だなあ。つらいだろうな、怒られるだろうな。首になるかも?」と思ってしまいます。

このアプローチのまずいところは、自分があまりにも“適当な性格”だと、「ほとんど誰も責められなくなる」ってことでしょうか。

たとえば狭い雑居ビルの非常階段にゴミ箱や段ボールを“ちょっとの間だけ”置いておくような行為。まさか火事が起るとか思わない。それらの荷物のために人が逃げられなくて死んでもいいなんてもちろん思わない。

だけど、自分がそのビルの所有者(管理者)だったら、毎日ひつこくテナントのバーに指導をするだろうか?もしテナントが言うことを聞かなければ毅然として「出て行ってくれ」というかしら?・・・と考えると、はなはだ心許ない。

でも実際に火事が起こり、その荷物のせいで人の命が奪われる事件もあります。そういう場合、“あるべき姿”と比べると「非常階段にモノを置くなんてとんでもない行為だ。許し難い。」となります。一方でちきりんには、こういうのを簡単に責めることができません。「自分がオーナーだったら、本当にちゃんと指導してただろうか・・」と考え込んでしまいます。


特に「責められない感じがする」のは、“自分が生まれた環境から抜け出て成功するために、無理をして無茶をしてのしあがってこようとした途上で大きな失敗をする”人達です。

そういう人の多くは「極悪非道な人」という感じはしません。不注意だったり軽率だったりするし、何よりも無知な場合が多い。“無知で不注意”なことと“極悪非道”なことは違います。けれど実際には、“無知で不注意”なことから重大な災害が起ります。被害者から見れば「許し難い事件」となるでしょう。


ちきりんが、“極悪非道”と感じるのは、自分の享楽、快楽のために弱者の命を奪うような犯罪です。“ありえない”と思うし、“重罰に!”と思います。遊ぶお金ほしさにお年寄りを突き倒して財布奪うとか、性的な快楽のために誰かの人生を踏みにじるとか。そういう犯罪に関しては遠慮なく責められる一方で、自分も環境や状況によってはそうしていたかも、と思うことは批判しにくいです。


というわけで、何かを批判している人の話を聞くと、その人が“あるべき姿”と“自分”のどちらを起点に責めているか、見えることがありおもしろいです。時には「そこに起点が!?」と驚くことも。皆さんも何かを責める時、自分の“起点”を意識してみるとおもしろいかもしれません。


そんじゃね。

★★★


<誰かを責める時の起点が“自分”であることが明らかな過去エントリ>

(1)ヒューザー社長と姉歯さんについて
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20051203

(2)折口会長について
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20070611

(3)無差別殺人事件の人について
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20070420