わかりにくい

“帰納と演繹”というのがありますよね。「いくつかの個別の事例から一般的な原則を導く」のが帰納で、「一般原則を適用して、論理的推論により結論としての個別例に行き着く」のが演繹、だと思います。

ちきりんはモノを考える時、圧倒的に帰納的に考えることが多いです。反対に演繹的に考えるのは苦手だし、気持ち悪いです。

「この前提が正しければ、個別にはこうなるはず」という時、一番重要なのは“その前提は本当に正しいのか”ということです。でもその前提自体が仮説であり、証明されてない場合が多い。なのに、その前提に基づいて、そこから論理展開するというのが、ちょっと強引な気がするのです。

たとえば演繹的な行動だと、「自分はこういうタイプの映画が好きだ」という前提の下に、そのタイプの映画ばっかり観るいうことになりがちです。「私はホラーが好き+この映画はホラー映画だ=私はこの映画が好きなはず、だから観にいく」という行動。よくあるパターンですよね。

でも、こういう行動をしていたら「世の中には他にもすばらしいものがあるかもしれない」ということに気がつかない可能性があります。他のジャンルにも「案外、私ってこういうものが好きだったんだ」というような新しい境地があるかもしれないのに、それを事前にブロックしてしまいそうでしょ。「あの映画は恋愛ものでしょ?私は関心ないから見ないわ」みたいになりかねない。

ちきりんとしては、寧ろランダムに映画を観て「私はこれが好き!」と思えるモノの共通項を探し、一般原則として「私の好きな映画はこういうものらしい」と考える“帰納的な思考&行動”の方が心地よいです。こちらの場合はいったん仮説ができた後も、さらに様々な映画をランダムに観て個別事例を積み重ね、自分の好きな映画の共通点をさらに追求していく、という行動になります。そういう帰納的な思考で行動したほうが、世界が新しい分野に拡がるし、今まで知らなかった素敵なものに出会える可能性が高いと思うのですよね。


というわけで、ちきりんが「私はこーゆーものが好き!」と言う場合、それは極めて帰納的に導かれた結論であり、“それが前提として使われて、そこからちきりんの行動に影響を与える”ということは、まずないです。「○○が好き!」とは言いますが、実際にやっていること、選ぶことは必ずしも○○だけではないです。

こういう態度は、よく言えば「柔軟性がある」「幅が広い」となりますが、反対に「いいかげんな奴」「言うこととやることが違う」とされる場合もありますけどね。


ところで、自然科学系の学問では、演繹的な考え方は不可欠です。一定の仮説にもとずいて、その仮説を証明するための観察や実験に一生を捧げるような人がいないと科学は進歩しません。「観察したことから言えること」(帰納的思考)だけでは到達できる範囲が狭すぎるからです。

より高いレベルでの一般原則を証明するためには、「この前提が正しければ個別にはこうなるはず」という演繹的な思考に基づく実験や観察が必要で、それには時に人の一生を超えるほどの長い期間が必要であったり、国家予算レベルのお金を注ぎ込んで大規模な実験施設を作ることが必要です。

帰納でしか考えないちきりん脳は自然科学には向いていないと言えます。


★★★

このどちらの方法がいいかというのは、その人にとって「仮説を否定しやすい方」がいい、のではないかと思います。

いずれの方法にせよ、仮説なんて間違いまくってるわけですが、それを修正しやすい方法で考えるべきだと思うのです。そうしないと間違った仮説にしがみついている間に過ぎる(人生の)時間が無駄になってしまいます。

自然科学の学者なら、一生を投じた実験が「仮説が間違っていたために」成功しなくても本望なのかもしれませんが(本望ではないにしろ、覚悟していたことなのかもしれませんが)、個人が自分の人生を間違っているかもしれない仮説にかけ続ける必要はないだろうと思うのです。


身近な例で考えてみましょう。例えば新卒学生の多くは「自分にはこういう職業が合っている」という思いこみ(仮説)を前提として就職活動をするわけです。「自分は○○な仕事が好きである+この会社の仕事は○○な仕事である=自分はこの会社の仕事が好きなはず。だから応募する」という感じです。

でもその会社に入社して希望の仕事を実際にやってみたら、「実はその仕事が合っていなかった」ということもよくありますよね。その時に「自分は○○な仕事が好きである」という前提・仮説を疑わないと、「この仕事が自分に合わないのは、この会社の仕事が○○な仕事ではないからだ」と考えることになります。時には「○○な仕事だと説明されたから入社したのに、騙された」みたいな話になります。

そして、「本当に○○な仕事を探して、自分は会社を変えるべきだ」という話になる。「自分は○○な仕事が好きである」という前提は間違っておらず、「この企業の仕事は○○な仕事である」という方が間違っていた、と考えるわけです。


でも、「いや、そーじゃなくて、最初の前提・仮説が間違ってるんじゃないの?」とも思うのです。そもそも「自分は○○な仕事が好きである」という前提の方が間違っている場合もあるはずなんです。そして前提の方が間違っていたら、何度転職を繰り返しても満足できる仕事にはたどり着けませんよね。

「自分には○○な仕事があっている!」という思い込み的な前提に基づいて職を転々とするくらいなら、最初から仮説や前提をもたずに様々な職を体験してみて、後から「つまり、オレにはこーゆー仕事が向いてるの“かも”」って言ってる方がいいんじゃないかと。

「こんな種類の仕事が、こんなにおもしろいとは思わなかったよ」とか「自分がこういうものが好きな性格だとは自分でも気がついてなかったよ」という感じで、個別事例からだんだん自分のことがわかってくる、という方向の方がいいんじゃないの?と思うのです。


科学者なら自分の信じる仮説のために一生を捧げるのもありでしょうが、個人の人生に関しては一般原則を見つけることがゴールでも目的でもありません。だったら、若い時から特定の仮説(例:オレはこういう人間だ!)に固執するより、いろんな個別体験を重ねるなかで、人生のずうっと後になってから「オレってこういう人間だったんだな〜」という一般原則がぼんやり浮かんできました、というパターンでもいいんじゃないかと。


そんな感じ。

あんまり“仮説“にこだわらないで!ってことかな、と。


じゃね。