今日は、「資本主義」「民主主義」という言葉の使い分け方法についてです。
私は、
(1)富の配分方法の差異を強調したい時は、資本主義(vs社会主義、共産主義)という言葉を使っています。
富を「その富を創造した人に配分する=すなわち私有とする」のが資本主義、
「富を、創造した人ではなく、社会や国家の共有物と扱い、必要な人(=富を創造した人とは異なる)に配分する」のが共産主義という感じ。
(2)一方で、富の話ではなく、「権限が一部の人にのみ与えられている=集中している、か否か」を強調したい場合は、民主主義(vs独裁、封建主義)という言葉を使います。
富とは関係なく、社会の意思決定、制度設計が、特権的な地位、権力をもつごく一部の人によって独占的になされているか、もしくは、全員の多数決=民主主義によって決められているか、ということです。
この使い分けは時にかなり微妙です。
たとえば欧州の美術館、博物館の多くは、昔は貴族・王族しか入れない宮殿でしたが、今は誰でも入れます。
「貴族の宮殿に、わずかな入場料さえ払えば誰でも入ることができ、王族、貴族しか触れられなかった財宝、絵画を、たいして富を持たない一般人も鑑賞し、楽しむことができる」現代社会は、非常に“民主的”です。
これを、富の配分方法の話だと考える人もいます。
しかし私はこれを富の配分の話ではなく、「文化・芸術を、特権階級が独占しているか、皆が平等にアクセスできるか」という話ととらえ、民主主義的な社会か否か、という話だと解釈しています。
それにそもそも昔の貴族社会も資本主義ですよね。
“にもかかわらず”その頃は、庶民はこんな宮殿(=今の美術館)に入ることも、そこに展示されてる絵も見ることはできませんでした。
だから「今、庶民の私たちが、この絵を見られる理由」が「資本主義のおかげである」と書くことには違和感があります。
当時と今の違いは「資本主義か社会・共産主義か」ではなく、「一部の特権階級である貴族の独裁社会」か「一般選挙で権限が平等に分散している社会か」の差なのです。
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このふたつの言葉(概念)の使いわけ方は、人によってかなりブレがあります。
その理由は、「民主主義」という言葉がとても耳障りが良いため、かっての西側諸国、すわなち資本主義陣営によって、長きにわたり、かなり都合良く使われてきたためでしょう。
アメリカは「資本主義以外の体制をとる国に、民主主義は存在し得ない」と主張します。民主主義は、資本主義を前提とするという考えです。
一方の共産国の多くは「プロレタリアート“独裁”」という方法論に縛られ、「共産主義と民主主義は相容れないものである」という概念に有効に抗弁できませんでした。
“一党独裁”でありながら民主主義とはこれいかに?ということになるからです。
本当は人口の99%が労働者である状況で「労働者独裁」なら、それって民主主義と言えるのかもしれません。
でも私たちはずううっと西側諸国の考えを刷り込まれて育っていますから、多くの人が「資本主義でなければ民主主義は成立しえない」、
すなわち、このふたつの言葉の間には「必然的な関係性がある」と感じています。
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他にも、この二つの概念が混乱しがちな理由が存在します。
それは「原理的に考えるか」「実質的な結果論で考えるか」という話です。
たとえば、上記には「必要な人に富を配分するという考え方が共産主義」と書きましたがこれは原理原則の話にすぎません。
実際、共産主義の国で「必要な人に富を配分してる国ってどこ?」っt感じです。
寧ろ資本主義国家の方が、様々な社会再分配機能(税金、社会保障制度)を充実させ「必要な人に富を配分している」と言える状況です。
だから、原理原則で考える場合と、結果論で考える場合では話が真逆です。
なんでそーなるかというと、「生み出せる富の総量」が資本主義と共産主義では圧倒的に異なる、ことが歴史的に証明されてしまったからです。
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富の総量の拡大(富の創造)と、富の配分方法は、別の話です。
どっちの体制がより経済発展するのか、という話と、経済活動の果実である成果物をどう分配するのか?という話は、理論としては別です。
しかし、富の創造の絶対量に圧倒的な差が生じると、話は別ではなくなります。たとえば、
A国は、国全体で100億円の富を創造し(GDP100億円でもいい)、100人の国民の内、ひとりが90億円を配分され、のこりの99名が10億円を分けて配分される場合、庶民はひとり1000万円ほど受け取れます。
B国は、国全体で1億円の富を創造し、国民100人で平等に分けました。ひとりあたり100万円です。
こうなると、不平等なA国の方が、庶民のもらえる額は10倍も多いのです。
ここから、「富の配分方法なんてどーでもいいじゃないか=格差はあってもいーのだ、気にするな!」という話がここから生まれます。
とりあえず富の総量(全体のパイ)をでかくすることが大事なのだ。それこそが解なのだ!という理屈です。
原理原則の世界では「富の配分」に関しては、
資本主義=格差があり、底辺の人は悲惨
共産主義=格差がなく、底辺の人という概念さえない
となるはずですが、
結果論としての現実では、生み出せる価値の総額=富の総額、が大きく違うため、
資本主義=格差はあるが、底辺の人も悲惨ではない
共産主義=格差がなく、底辺の人という概念さえなく、皆が貧しい
ということになったわけですね。
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そして本来的には「富の話と、権力の話」も別の話です。
権力を持つ大名、武士より、権力を持たない大商人の方が富をもっていた江戸時代がその例でしょう。
封建時代にも王室・皇室ほどの権力は持たないが、富はもっと多い地方貴族、はたくさんいたでしょう。富と権限は別々に存在しえるのです。
ところが、「富を持つと権力をもつことができる」というのも、また事実です。将軍の権力を“ワル”の越後屋が左右し、大企業が政治献金により政治家の意見を左右するようなパターンもあります。
反対に「権力をもつと富が持ちやすい」のももちろん事実ですね。
ブッシュは知事や大統領という権力をもつからこそ、自身のルーツであるエネルギー産業に富を集めるため、京都議定書にもサインしないし、石油価格高騰にも対策は打たないという行動が可能になる、ってわけですよね。
さらにさらに、権力を広く分配すると富も広く分配される、というのもまた事実。「民主主義だと、権限だけでなく、富も、ある程度平等に分配される」ということ。選挙でそういうプレッシャーがかかる。
というわけで、本来独立概念だと思われるものが、実質的には相互リンクしてる。
富=権限なら、このふたつの概念を分けて語ることに意味があるのか?いやない、ってことになる。
ちきりんが一番最初に書いた(1)は富の分配の話、(2)は権力の話ですが、富の分配・配分には意味がないわ、しかも富と権力をわける意味もなし、と言われると、あの定義分け自体無意味となります。
現代社会に生きる私達に、(ある程度)広く平らに豊かさをもたらしたものとは、果たして「民主主義」なのか「資本主義」なのか? どっちなのでしょう?
これにたいするちきりんの回答は、
→「私達に(ある程度)広く平らに豊かさをもたらしたもの」は、
=「広く平らに」by 民主主義
=「豊かさ」by 資本主義
です。
ただ、最後に皮肉なことを書けば、「ああいった超一級の芸術品を、誰でも鑑賞できる」のは確かに民主主義のおかげかもしれないのですが、
その一方で、そのまさに鑑賞の対象物であるコンテンツ、すなわち絵などの芸術品の大半は独裁的な封建主義、貴族主義のもとでこそ誕生したものだということです。
非民主的な社会だったからこそ、あんな宮殿がたち、あんな芸術品が生まれているのです。
民主主義で、かつ、一級品の芸術が生まれた国って、今の先進国がチャレンジ中なので、まだ将来的には可能かもしれないけど、今までのところ例はないですよね。
そもそも民主主義では、あんな宮殿自体(美術館の建物自体)を創り出すことができないのでは?とも思います。
そういう意味では、「あんなすばらしい美術館を堪能できる庶民の私たち」が感謝すべきは
(a) あんなすばらしい美術品を生んでくれた非民主的な社会(独裁社会)
+
(b) 全員にそれへのアクセスを平等にくれている民主的な社会
の組み合わせということになります。
つまり、「非民主的な社会がまず存在し、次に民主的な社会が到来する」という順番があって、はじめて、私たち庶民はあのすばらしい美術館とその所蔵品を楽しめている。
とも言えるのです。
ではでは!