今回は「日本における絶対的貧困の定義」について考えてみます。
世界的には「その日の食べ物の入手に苦労する生活レベル」を絶対的貧困といいます。
つまり、「今日は、今日の食べ物を得るための人生である」という、文字通り「生きるために生きている」状態を絶対的貧困というわけです。
他に「一日を一ドル以下で生きる人」という基準もありますが、絶対的貧困の人達が住む国の多くでは貨幣経済が機能してないので、こっちの定義は先進国の人が机上で作った匂いがします。
前回のエントリでも書いたように、ちきりんとしては「日本における、ローカル基準としての、絶対的貧困基準」を考える必要がある思っています。
別の言い方をすれば、上記の世界基準を日本に当てはめて「貧困問題は日本には存在しない」という意見には賛成できないってことです。
では、「日本におけるローカルの絶対貧困基準レベル」はどう定義すればよいのでしょう。
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個人的には「大人については」下記が満たされていれば、貧困とは呼ばないと思います。反対に言えば、どれかが満たされていなければそれは「貧困」とよぶべき状態だと思います。
(1)食料確保に不安がない状態
(2)プライバシーと一定の衛生レベルが確保できる住居があること。また、住居と生活様式について、一定の選択ができている状態
(3)家族形態、職業選択等に関する希望を、経済的理由で諦める必要がない状態
食料に関しては、世界基準とは異なり、「今日の食料」ではなく「ずっと手に入れられると見通しがある」ことが必要だと思います。
(2)は住居の話なのですが、一定レベルのプライバシーと衛生状態という部分はともかくとして、後半の“一定の選択ができていること”も必要かと思います。
生活コストには地域差があります。温暖な地域の中堅都市は、寒冷地や都心に比べて住居コストは低いです。暖房不要で、車も不要だし、バイトも見つかりやすい。しかも大都市とちがって家賃も安い。
だから、「生活保護の人はこの県のこの街のこのアパートに集まって住んでください」=「生活保護がほしければ居住地選択の自由は放棄してください」と言えば、生活費、もしくは保護費は安くできます。
実際、東京で生活保護を受けている人に全員地方に引っ越せと言えば、住宅保護費は安くなるでしょう。
一方で、長年暮らしてきた家で経済的に困窮した高齢者や病気の人にたいして、「生活保護をもらいたいなら、見知らぬ土地に引っ越してください」というのは、たとえそれで食料や住む家が保証されたとしても、適切な貧困対策だとは言えないですよね。
日本における最低限の生活保障というのは、贅沢は言わないまでも、「ここで生きていきたい」という個々人の自由度をある程度尊重できるというのが条件だと思います。
同じ意味で、ちきりんは生活保護の現物支給案に関しても賛成ではありません。
生活費の中から、米を買うのか嗜好品を買うのかは、支援される人の選択に任せるべきだと思っています。
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最後に、「お金がないから子供が産めない」とか「経済的理由により、この仕事以外は無理」という状況もまさに貧困状態だと思います。
誤解のないように書いておくと、多くの人が子供の数を制限する理由として経済的な理由をあげますが、あれはここでいうところの「お金がないから子供が産めない」とは違います。
多くの人達は、子供に十分な教育を受けさせたいとか、個室の子供部屋がもてる住居を用意したいがそれは無理だから・・という判断をしています。
が、そういうケースではなく、もっと切実な意味で、お金がなくて子供が産めない人がいるんです。
たとえば夫婦2人がめいっぱい働いてぎりぎり食べていけるような家庭では、女性は出産のために仕事を一時的にもやめることができません。
派遣で働いていて産休もとれず、子供が生まれた後の職場復帰もできない場合も多々あります。そういう場合は、本当の意味で「お金がないから妊娠なんてできない。」という状態になります。
これはやっぱり貧困と言えるのではないでしょうか。
また、子供が高校や大学への進学を諦めて働かなくてはならない、という状態も貧困と思えます。
生活保護家庭で育つ子供達には、こういった判断を余儀なくされている場合も多そうです。
というわけで、「食べるに困らず、最低限の住環境が住みたい場所に確保できており、家族形態や職業選択について経済的な理由で断念しなくてよい暮らし」が、すべての人に保障されるようになれば、日本には貧困はない、と言える・・・これがちきりんの考える貧困の定義です。
もちろん上記は個人的な考えであって、いろんな人が多様な意見をおもちだと思います。
貧困問題は最近はよく議論されますが、「いったいどういう状態を貧困状態と呼ぶのか」「何が確保されていなければいけないのか」という点について、具体的に議論されることが少ないように感じました。
「健康で文化的な最低限の生活」とはどんな生活だと私たちは思っているのか、みんながより具体的に議論してみるのもこの問題を考える一歩になるかもしれない、と思います。
そんじゃーね。