世界記録の意味

レーザー・レーサーを試用して泳いだ北島選手が世界新記録を出しました。
これって、すごい。金メダルと同じくらい意味があるんじゃないかと思います。

ご存じのように問題は水着です。ここのところ、イギリスSPEEDO社の新水着、レーザー・レーサーを着用した選手の世界記録更新ラッシュが起っています。けれど日本水連の規定により、日本代表選手は北京オリンピックでこの水着を着用できません。

日本だけの問題ではありません。北島選手のライバルであるハンセン氏もナイキと契約を結んでいるため、同じ問題に直面しています。アメリカだから契約内容ももっと厳しく、違約金は北島選手よりもかなり多額なのでしょう。

もちろんナイキはハンセンに勝ってほしいし、ミズノは北島に勝ってほしい。誰もスポンサー選手の勝利を邪魔したいわけではありません。けれど当然、自社の水着を着て勝ってほしい。悩ましい選択です。


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背景から見ていきましょう。オリンピックにでる選手はみなアマチュア選手です。なので、スポンサーに相当の金銭的補助をしてもらわないとやっていけません。

日々の生活費、専属トレーナーやコーチの給与、プールの使用料、遠征の交通費、ホテル代、水着や高栄養食などなど。普通の人が一年暮らすために必要な生活費が年数百万だとすれば、その数倍以上のお金がかかることは容易に想像がつきます。

道具が少ない水泳ではスポンサーになってくれるのは水着メーカーくらいのもの。彼らがスポンサーからひいてしまうことは、日本のアマチュア水泳業界にとって文字通り“死活問題”。

一方で水着メーカーの立場。彼らはこういった一流選手に相当額を“投資”しています。大きな大会で、自社のロゴがついた水着を着てプールサイドで選手が手をあげる。その映像が世界に配信される。その広告効果を○億円と踏んで、何年も前から投資を続けるわけですよね。多くのメーカーは、芽がでるかどうかわからない無名の時代から、多くの選手の生活を丸抱えにサポートしています。


そしていよいよ晴れの舞台がやってきた日

選手が着る水着に自社のロゴが無いかもしれない。表彰台に立つ選手が着ているのは、みんなレーザー・レーサーかもしれない・・。


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皆が考えているのは、「北京以降」の話でしょう。北島選手自身は全くスポンサー探しに困らないはず。あの記録、あのキャラです。水泳引退後のCMなら自動車でも洋服でもビールでもなんでもいいし何社でもいいのだから、「引退後の数年の専属契約」を約束すれば、水着以外の会社で彼のスポンサーになりたい会社はたくさんあるでしょう。今回の大会で違約金をミズノに払う必要があっても、それをすべて丸抱えにしてくれるスポンサーだって見つけることができるでしょう。

でも、他の選手はそうではありません。まだまだこれからという段階の、もしかしたら北京の次が本番かも、くらいの若手選手がたくさんいます。

北島選手ほどの実績も知名度もない彼、彼女らにとってそれはほとんど解のない問題です。北京で契約違反の水着を着て、それでもまた次の4年間、日本の水着メーカーが自分の支援のためにお金を出し続けてくれるか、次のオリンピックでもその会社の水着を着ない可能性がある自分に?

それは自分の選手生命を左右しかねないほどの問題です。

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北島選手よりハンセン選手の方が大変だろうと上に書きました。違約金は桁が違うだろうし、契約の細かさも半端じゃないでしょう。そして、それを認めた場合に株主から訴えられる可能性の大きさも、ナイキとミズノでは全然違います。

誰もかれもが悩んでる。SPEEDO社以外・・


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昨日ニュース番組で司会の江川卓氏が聞きました。「で、スピード社の水着はやっぱりそんなに早いんですか?」と。北島選手は答えていました。「そうですね、いろんな面で、メンタルも含めて」と。

なるほどそうかと。

「この水着を着れば早い!」と選手が思う。そのことが記録を呼ぶ面もあるのだ、と北島選手は言っていたのです。


とすれば、ミズノやデサントが今からいくら水着を改良しても、それはもうほとんど無意味な行為だというわけです。必要なことは「世界中で、その水着で新記録がでて、選手が“これなら勝てる!”と自己暗示をかけられるかどうか」という点でもあるのだから・・。

確かに極限的な状況での1秒を切る記録の差。「魔法の水着だと信じられるかどうか」、それさえも、いやそれこそが、極めて重要なことなのかもしれない。


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先月末のアメリカでの大会。ハンセン選手はスピード社の水着を試してみました。でもタイムは平凡だった。江川卓氏がその点を北島選手に聞くと彼はこう言いました。「まじめに泳いでないです。もう調整の時期ですし。」


ハンセン選手のその大会は5月の末。

「もう調整の時期だから、まじめに泳いでない?」


じゃあ、今回の6月の大会で世界新を出した北島選手は、調整時期でないの? 今頃、世界新を出してて、オリンピックにまたピークを持って行くのって、大変じゃないの? そういえば昔、選考大会ではなく本番のオリンピックに照準を合わせた調整をして代表に選ばれなかった女子選手がいたよね!?


もちろん北島選手はハンセン選手とは状況が違うところもあります。ここのところの世界新はすべてハンセン選手が持っている。北島選手としては、彼にプレッシャーをかけるためにも世界記録を出しておきたかった、そういう理由もあったかもしれません。

でもちきりんは、もうひとつ大きな理由もあったんじゃないかと思ってるんです。「ここで自分が世界新を出せば、水着問題を解決できる」と考えたんじゃないかなと。


だからあえて彼はこのタイミングでさえ、「調整」せずに世界新を狙いにいったんじゃないの?と。


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今回、北島選手がオリンピック直前のこの大会で、調整をせず全力で泳ぎ、世界新を出したことで、すべての日本選手がスピード社の水着を着る権利を得られるでしょう。そして世界にはもうひとり、北島選手に感謝しなければならない選手がいる。


ハンセン氏です。


今回、北島選手がスピード社の水着で世界新を出したことで、ナイキも考えるはず。「ナイキで負けたハンセン選手」より「金メダルのハンセン選手を応援するナイキ」になるべきじゃないかと。

北島選手がスピード社の水着を着られないなら、ナイキもハンセン選手にスピード社の水着を着せる必要はありません。しかし、北島選手が着るなら、、、話は違ってきます。


ハンセン選手にはもうひとつ選択肢がありました。先月末の「調整レース」でスピード社の水着を着て、「調整」せずに「本番」の泳ぎをすることです。

そして今までの記録を上書きする世界新をだせば、その時点で、彼も、北島選手もスピード社の水着を着られることが決まっていたはず。今回と反対のことが起こったはずなのです。まずはハンセン選手がスピード社の水着を着ることが決まり、それなら北島にも着せなくちゃ!と日本側が思う、という順番で、ね。



平泳ぎの世界にはふたりの選手がいます。


水着問題を解決できる二人のシンボリックな選手が。


その二人には二つの選択肢があった。オリンピックの3ヶ月前の大会で、オリンピックに向けて調整の泳ぎをするか、世界新を狙える泳ぎをするか。


ハンセン選手には(世界新より)本番での金メダルが大事だった。金メダルをすべて北島に持って行かれたアテネの結果を思い出せばそれは容易に想像できます。



英語のリーダーシップとかフランス語のノブレスオブリージュとかではない。日本語の“心意気”いう言葉がよく似合う。北島選手はほんとかっこいい。

がんばって。



金メダルをとれたら、肩にタオルをかけてインタビューを受ければいい。


MIZUNOと大きく書かれたタオルを肩にかけて、最高の笑顔で金メダルを高く掲げればいい。そうしたら、世界に配信されるのはその映像じゃん。ミズノもその株主も、きっと心からその金メダルを喜んでくれるだろう。

金メダルを高く掲げる、上半身だけの北島選手の写真を一面に載せるくらいの、“心意気”が新聞各社にもほしいものだけど。


そんじゃね。