若年失業者問題に絡んで
企業は、不当に高給を得ている中高年を解雇できないから、新卒採用を抑えて総人件費を下げ、足りない労働力は非正規雇用でまかなった。
したがって若者の正社員採用を増やすには、中高年をリストラしやすくする必要がある。
という意見があります。これを“意見A”としましょう。
それにたいして
「中高年は家族を養っている。彼らがリストラされたら、その子供である若者が大学に行けなくなるだけである」
「解雇を容易にすると一時的には若者の雇用が増えるかもしれないが、若者がいずれ中高年になった時に雇用の安定性を失う」
と反対する“意見B”もあります。
このふたつの意見の違いをみてみましょう。
<相違点1>
Aは、「労働者全体に回る資金は一定」という前提のもとで「労働者内での資金の分配方法」を問うています。
一方Bは「資本家のお金を、より多く労働者側に回すべき」という意見です。つまり、AとBには労働分配率に関する意見の相違があります。
<相違点2>
Aは「仕事の成果と報酬の関係」を重視しており、若者の失業問題とは別に「中高年の得ている対価が不当に高い」という問題を指摘しています。
しかしBでは「問題は若年者に仕事がないこと」のみであり、中高年の給与が成果以上であることは、なんら問題ではないと認識されています。
Bにとって、給与とは仕事の対価ではなく「生活の必要資金を社会機関が個人に分配する仕組み」なので、子供の教育費やローンを払う必要がある中高年の給与は、現在の額で妥当、もしくはまだ不足しているとなります。
労組は「賃上げ」を求める理由としてよく「過去一年で物価が○%上昇した」と言います。この言葉が、彼等が「給与」を何だと考えているか明確に示しています。
Aからみれば、仕事の成果の集大成である企業業績が落ちれば、賃下げもありえます。しかしBから見れば、企業業績が下がっても物価があがったなら、賃上げを要求するのが当然です。給与を何と考えるか、この点も全く違うのです。
<相違点3>
Aは若者に仕事がないことを、給与問題というより「人材育成」「将来の競争力」の面から憂慮しています。
「仕事のスキルを身につけ、様々な経験を積む機会」が、今後 20年でビジネス社会から引退する中高年に独占され、若者に与えられないことに危機感を持っているのです。
Aによれば「給与は仕事の成果に基づく報酬」であるため、スキルや経験を積まないと一切上昇しません。より高い報酬が必要な年代になるまでに、若者がスキルや経験を積むことが重要なのです。
だからこの問題は社会福祉で解決できるものではないのです。失業保険や生活保護では生活費は得られても、スキルも経験も得られません。
一方Bは、仕事のない若者は社会福祉で救われるべきと主張します、
自分たちの仕事の一部を若者にわけるワークシェアリングには反対です。
この問題を解決する義務があるのは、同じ労働者である自分達ではなく、国であり資本家だと考えているからです。
「社会福祉ではスキルと経験が得られない」という点も問題視されません。
「資本家達がより儲けるために、より仕事の早い労働者が必要だから、スキル向上などと煽っているだけ」と考えています。
また経営者は常に、できる奴とできない奴の給与に差をつけて労働者の分断を図ろうとしているが、そういう「むやみに競争を煽り、労働者内に格差を作って仲違いさせる作戦」にはまってはいけないというのがBの意見です。
こうなると、労働者の権利である休日を利用して自己研鑽するなどというのは、資本家の思うつぼということになります。
このようにAとBでは、労働者のスキルアップは誰を潤すのか?という点に関しての大きな意見の相違があります。
<相違点4>
AはBに対して、「資本家側のお金を労働者側にこれ以上回すのは無理である。そんなことをしたら企業は世界との競争に勝てない」「高福祉社会を実現するためにも、経済成長が必要なのだ」と言います。
Bは、「競争は際限のないものであり、それが理由で労働者にお金がまわせないというのは詭弁だ。」と考えているし、
福祉財源に関しても「国民が財源を云々する必要はない。財源とは優先順位の問題なので(=お金がないわけではないので)、国民側が高福祉実現のための方法論まで考える義務はない。」と言います。
ここで明確になるのは、Aは「権力者側」に近い発想であり、Bは「権力者と対峙する立場に自分をおいている」ということです。「A=権力者である」ということとは違います。あくまで「視点をどこにおくか」という問題です。
たとえば一般家庭でも子供は「あれ買って! これ買って! 学校でみんな持っている!」と言います。財源の話なんてしません。
が、夫が「パソコン買い換えたい」と言い、妻に「そんなお金どこにある?」と言われれば「わかった、タバコはやめる」くらいのことは言わざるを得ません。
この場合、夫は権力者ではありませんが「権力者側に近い発想」を求められる立場にあるため、「あれ欲しい。けど、財源は知らん」とは言えないのです。
この不況下で労組が賃上げを求めることに違和感を持つ人も多いと思いますが、Bに言わせれば「財源問題は自分の問題ではない」のです。
まとめておきましょう。
意見A
・給与は、仕事の成果の対価である。
・したがって、誰であれ仕事の対価に見合わない給与をもらうのは不当だ。
・労働者は「仕事を通して得られるスキルと経験」を積むことにより、仕事の対価である報酬を増やせる。
・追加的な支出を求める場合、財源をセットで考えるのは“責任ある立場の者として”当然である。
意見B
・給与は、生活必要資金の個人への分配である。
・仕事の対価に見合っていなくても、それがその人の生活に必要な額であるならそれは正当な額である。
(反対に、たとえ仕事の対価であっても生活費を大きく超える報酬を得るのは不当である=いくら仕事ができても、生活費の安い若者が高給をもらうのは不当である)
・労働者がより高いスキルや経験を得ても、得をするのは資本家だけだ。
・自分たちが要求することの財源を考える必要はない。それは経営者や権力者の仕事である。(彼らはそれだけの権限と富を独占している。)
ということでしょうか。
そして、BはAを「いたずらに世代対立を煽り、労働者の分断を図る卑劣な意見」と非難し、反対にAはBを「未だにマルクスの亡霊に取り憑かれている100年遅れた職業活動家」と見ています。
もしかすると両方とも若年者失業問題を“利用”して、自説を唱えているだけ、なのかもしれません。彼等が若年者失業問題を「解くべき課題」ではなく「利用できる課題」と考えている限り、若者が救われることはないでしょう。