謝らない権力・謝るべき個人

権力というのは「簡単に謝罪などするものではない」というのはよくわかる。これは特に、その発言が国内だけではなく世界に向けて意味を持つ国家元首などの場合に明らかだ。

オバマ大統領が「米国が“核兵器を使用した唯一の核保有国”として、廃絶に向けて行動する“道義的責任”を負う」という発言をしたことについても、米国内ではその観点から批判もあるようだ。

日本に関しても、中国、韓国等への過去の歴史、過去の行いに対する謝罪については、誰が、いつ、どのような機会で、どんな言葉で、それらの意を表明するのか、というのは、外交上の超重要事項として検討に検討を重ねた上で実行に移されるのだろう。(もしくは、実行しないと決められる。)

これはおそらくどの国も同じだろう。国家トップの発言は「外交上の言質を他国に与えること」になり、将来長く「歴史の証言」に使われる。そうそう簡単に「私が悪うございました。すみません。」とはいえないのだろう。


昭和天皇だって同じだよね。“個人として行動できるなら”「軍部に引っ張られたとはいえ、この国を戦争に巻き込み、多大な被害と不幸を与えて、本当に申し訳なかった。もちろん諸外国にも謝りたい。」くらいのことは言ってもよかったんじゃないの?と思う。

しかし、さすがのちきりんでも“天皇”がそんなこと言うのはありえない、ともわかる。だから昭和天皇は別の形で国民に実質的に謝罪しようとされたと思うし、諸外国にたいしても代を継いで(許される範囲で)その意を表されようとしているように見える。


というわけで「国家元首」に関してはまだ“わからなくもない”「謝罪しないという原則」なのであるが、それを拡大解釈して、多くの行政機関、官僚が全く謝らない、というのはいったいどういうことよ?と思う。これはちょっとひどいよね、と思うことが多い。


一番ひどいのが警察。間違って逮捕するとか、訴えを受けていたのに捜査をせずに放置してその間に被害者が殺された、という事例は頻発してるが、これらの多くについて警察は謝罪していない。「努力を尽くした結果」とか「予想できなかった」とか言い訳ばっかり。もしかして警察って「絶対に謝るな!」と内部できつく教育したりしてるんだろうか?と思うくらいです。

今回17年以上も無実の罪で拘留されていた方がようやく解放された足利事件。栃木県警、国家公安委員長が相次いで“謝罪した”と報道されている。

あたりまえすぎ。

今回の罪の大きさを考えると、「謝罪発表」だけではなく、個人が本人を訪問し土下座して謝っても不思議でないと思うけど?


溜息がでそうになるのは「警察や検察っていうのは、これくらいのレベルのことが起こらないと謝らないのね」ということ。17年も不当拘束して、無実の人の人生をめちゃくちゃにして初めて「謝罪する」っていうのが、警察や検察のレベル感らしい。

でも実際には「誤認逮捕」されただけで職を失ったり、信頼を失って倒産に追い込まれたりすることだってある。権力のほうにしてみれば「すぐに無実だとわかったんだからいいじゃないか」ということなのかもしれないが、起訴されるなんて個人の生活にとっては天地がひっくりかえるほどの大事なのだ。(たとえ後から無罪だと判決がでても)人生は狂っちゃう。裁判で無実が証明されたからよかったよかったという話にはなりえない。

権力側にいる人って、そういう「ミクロな現実」に関する想像力があまりにも欠如しすぎ、だよね。


他の行政機関も同じ。生活保護申請を断れた人が相次いで餓死している北九州市の市職員も頑なに「判断は適切だった」って言う。この判断をした人、自分の子供にその判断を「正しいのだよ」と説明できる?ほんとに??恥ずかしくない??墓前に手くらいあわせにいったらどうかと思うよ。

厚生労働省。薬屋からリベートをもらってる学者の意見に無批判に寄り添って、健康な人に危険な製剤を投与し続けたことに関して、誰か一人でも当時の関係者は「人生をめちゃくちゃにされた被害者の人たち」に自分の言葉で謝ったことがあるんだろうか?

自分達の思考停止な事務仕事のせいで命を失った人の遺族や、10代にして死と向かい合いながら生きていくことを余儀なくされた人達に、一度個人として向き合ってみたらどうだろう?

裁判で判決がでたら終わりなのか。裁判で解決すればいいのだから「わざわざ謝る必要はない」のか。ほんとにそう思ってる?個人として、自分の胸に手を当てて考えてみて、本当に“謝罪しないことが正しい行いだ”と信じてる?


いえいえ、言い訳が山ほどあることは理解できますよ。
・裁判が行われているのだから、それに差し障る“謝罪”はできない。
・「意思決定をしたのは官僚個人ではなく、国としての機関だ」から個人が謝るのはおかしい。
・「最終的には首相の判断=政治判断である」から官僚が謝るのはおかしい。
・正誤は裁判で決せられるのであり、謝罪と補償はその判決に伴って行われればそれでいいのだ、


はいはい、わかります。だから「官僚は謝る必要はない」し「謝らない行動は正しい」のだよね?

はいはい。




個人の世界であっても、「謝る」という行為はとても難しい。子供の喧嘩ではない。大人同士で「謝罪」すれば、補償問題や責任問題にもなるし、その後の関係や立場にも影響する。わからなくはない。それでも「一個人として謝るべき」という場合はあるはず。「謝ること」は、謝る側の勇気と誠実さと器の大きさ、生きていく姿勢を表すことになる。


裁判による罪と罰の確定と経済的な補償、それに今回ようやくなされた「責任者の謝罪発表」に加え、何度もにわたる再検査の要請を無視し続けた官僚側の個人、無茶な自白を誘導した取調官本人たちが、個人として、自分の言葉で被害者に「謝る」ってのは、そんなに難しいことなのかしらん。


ちなみにちきりんが知る限り個人として「ああ、ちゃんと謝ってる」と思えた権力側の人の事例は、昨年の自衛隊のイージス艦が漁船を転覆させた事件。軍艦の舩渡艦長が被害者の遺族に頭をさげて謝ってた。泣きながら自分のミスだとおっしゃってました。「個人として謝ってる」という感じだった。

防衛省の責任者や現場の責任者の処分、起訴と同時に、こういう「責任者個人が遺族の元を訪れて直接謝罪する」というのは、とても大事なことだとちきりんは思う。

なぜならそうやって初めて自分のやったことの帰結をビビッドに理解できると思うからだ。そしてその痛恨の理解が、将来の同様のミスを防ぐ原動力になると思うからだ。

「謝罪の談話」とかだと数ヶ月もすれば忘れちゃうでしょ。被害者本人やその家族の人生を自分がどう狂わせたのか、加害者は(それがたとえ行政機関の歯車として下した判断に過ぎないのだとしても)きちんと自分の目で見るべきだ。自分の心で直接受け止めるべきだ。

その機会こそが、次の不幸を防ぐのだから。



「権力とは謝らないものなのだ」という通念自体が、壊れるといいなあと思います。


そんじゃーね。