小さな欺瞞・大きな勘違い

テレビのインタビュー番組に、元TBSの企画局長で今は放送評論家という肩書きの田原茂行さんという方がでていらした。田原さんは地上波の番組の質の低下を嘆きながらも、「実はあちこちの地方局が非常に質の高い番組を作っているんですよ」と、ある地方の村興し活動を密着取材したドキュメンタリー番組を例に挙げながら熱心に話されていた。

そして、それらの番組がそれを制作した地方局のエリアだけで放映され、全国には全く放映されないと嘆いていらした。キー局は視聴率がすべてであって、たとえ質が高くても「地方興しの記録」のような地味な内容の番組を放映しないのだ、と。

ちなみにその地方興しの番組はDVDにされて3000円で売られていて、これは予算を補うと共に、他エリアの人にも見てもらいたいという思いで行っている、とのことでした。

また地上波のキー局の番組編成について、「良質のドキュメンタリー番組などは深夜にしか放送枠をもらえない」ともおっしゃっていました。



うーん。


どうですか?


この主張を「なるほど、その通りだ!」と思える素直な方もいるとは思うけど、「なんだかな」と思う人もいるでしょう。

だって今時「全国の人に是非見てもらいたい!」と思うなら、まずはネットに載せればいーじゃん。別にYou Tubeにのせろとはいわないが、いくら地方局だって自分のウエブサイトくらいもってるだろうし、そこにその番組を載せてしまうことはナンの問題もないように思えるよ。

既にDVDで売ってるということは、(&また出演者も地元の人ばっかりなんでしょ?だったら)、テレビ関係者が“番組をネットに流せない理由”として「錦の御旗のように掲げる権利関係という言い訳」についてだって問題なさそうなのに。

今は“ネットで有料で”ということも可能だから、わざわざDVDにして3000円で売るくらいならネットでもっと安い料金で視聴できるようにすれば、それこそ「もっと多くの人にみてもらえる」んじゃない?一番組3000円なんて普通の視聴者は払えないじゃん。300円なら見たいと思う人も少しは増えるでしょ。


しかもこの人が活動する団体で「全国テレビドキュメンタリー」という“紙の本”まで毎年作ってるんだよね。その年のテレビドキュメンタリーで優れた作品を一覧にしたような本です。いろんなローカル局のドキュメンタリーを含め、一年分で200本くらい良質の番組を紹介する“紙の本”です。

また“テーマごとの一覧”も作っているらしい。たとえば“医療問題”というキーワードで、それら全国のテレビ局が作った番組を一覧できるリスト。そのリストらしき“紙”を手元におもちでしたよ。

んで、田原さんは「これをですね、東京でもって全国に放映してほしい。見られるようにして欲しいという一念でやっているんです。」と。「(そうできないことは)一種の社会的な不公正だと考えざるを得ない。」とまでおっしゃるんです。

確かにこれらの“熱い”言葉を聞いていると、ちきりんにも(一瞬)その言葉に嘘はないように思えました。


だけどさ。


そこまでいいつつ、そういう番組をネットで公開すること関して40分ものインタビューの中で全く言及しないのはなぜ?“インターネット”という言葉が全くでないってさすがに不自然じゃない?しかも「ドキュメンタリーは制作した局が(音楽以外の)権利を全部もっていることが多い」とまでいいながら。


なぜ?


考えられる理由としては、
(1)この人の発想には、そもそも「ネット」という概念が存在しない。
(2)良質の番組をキー局で放映して欲しいとは思っているが、ネットでは流したくないと考えている。
(3)ネットを見ている人の中には、そんな高品質番組に関心のある人はいないと考えている。
などがあるのだが、どれなんだろう?それとも(ちきりんが思いついていない)それ以外の理由があるのかな。


「より多くの人に見てもらいたい!」というのが本音なら、コピーライトを手放してネットに載せればいいだけだ。内容によっては誰かが勝手に英語や中国語の字幕をつけてくれて、それこそ何億人がみてくれるかもしれない。

しかしそうはしない。ただただ「キー局が全国放送してくれない」と嘆く。うーん、これじゃあ「いい番組が一地方に埋もれている。できるだけ多くの人に見てもらいたいのに」といいつつ、その本音は異なるのではないか?と思えてしまうよね。


と思ってたら別の話がでてきて、ちょっとだけ話が見えてきた。インタビューの中ででてきたのは、「ドキュメンタリー番組を対象にした賞」の話だ。

田原さんによると4つくらい良質の番組やドキュメンタリーを対象にした賞(コンクール)があるらしい。地方の時代映像祭とかギャラクシー賞、放送文化基金、民放連賞とかいうらしい。

一年に数本ずつしか受賞できないが、それでもこうやって良質の作品に賞を与えることで、ドキュメンタリーに光を当て、ドキュメンタリーの火を消さないようにしている、とのこと。“質の高いドキュメンタリーに与えられる権威ある賞が、こういう番組を作る人へのインセンティブになっている”ということらしい。


で、これを聞いて、ああ、なるほど、極めて「テレビ時代的発想だよね」と思った。


ネットで、たとえばYou Tubeで“いい作品”を探したければ、その目安になるのは“賞をもらった作品”ではなく“より多くの人が見たもの”ということになるだろう。再生回数こそが、その作品にたいする市場の評価を表す。海賊版は大きな問題だと思うが、海賊版も作ってもらえないような作品は世界に通用しない、というのもまた事実だ。

テレビ番組は「権威ある賞」をめざし、ネット上に公開された作品は「何回見てもらえたか」を競そう。まあここは議論のあるところで、ブログとかでも“アクセス数”を目指すものもあれば“ブログ大賞”とかを目指すものもあるかもしれないので、必ずしも「ネットは賞に無縁」とは言う気はない。“賞をとった映画”だからこそ、さっそくネット上でだって話題になるわけで。

それに“再生回数”が“視聴率”同様、必ずしも質を担保する万能ツールとも思いません。が、ここは大きく“発想”の異なるところなのだと思うのです。

“権威ある賞”をとるってことはね、“少数の専門家”、“業界の大御所”に評価してもらうってことだよね。それを目指す世界は、世界中で数多くの人がダウンロードしたり、コピーしたり、(ストリーミングでももちろんいいのだが)見てくれたか、ということを意識する世界とは、コンセプトが違う世界だと思えるわけ。「日本レコード大賞」と「着うたダウンロード件数一位」の違いというか。


話を戻しましょう。

「こういう良質の番組を是非多くの人にみてほしいのだ」と言いつつ、


本当のところ彼が切望していることは、こういう番組を
「(ネットではなく)テレビという特定のメディアで」
「キー局がゴールデンタイムに放映してくれる」ことであり、
「権威ある賞」をもらうこと
、なんじゃないの?


上記で紹介した地方興しの名ドキュメンタリーの制作者が「私の願いは何かと言えば、これが全国で放映されること、それだけだ」と言っている、という発言もありました。なるほど、この制作者の方は比較的“正直”ですよね。“自分の望みは全国放映”です、と。“地方のテレビマンの夢”ってのがどういうものなのか、よくわかります。



他にもこんな話をされてました。「川口までいけばNHKの番組のアーカイブが見られる」とか「横浜に来てもらえば放送ライブラリーという財団法人が数百本の番組を蓄積している」と。

なるほど、いい番組を見たいなら川口と横浜に来いと?一方で「多くの人にいい番組をみてもらいたいのにそれが実現できない」と憤ってるわけですね。わかります。みんな何で川口や横浜までこないのだ、と?




小さな欺瞞大きな勘違い
この話には、そのいずれかが存在してる。
どっちだかはわからんけど。
(“大きな欺瞞”と言わないところがちきりんの良心)




最後に彼の言葉を紹介しておきましょう。


「まさに宝の持ち腐れなんです。」


何がって?

「地方の優れた番組をキー局が全国放送しないこと」をさして“宝の持ち腐れ”とおっしゃっているようです。



ふむ。


「宝の持ち腐れ」


なるほど。


そんじゃーね。