10年前にでた本だけど、すごくおもしろかった。

- 作者: 佐藤俊樹
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2000/06/01
- メディア: 新書
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“ほほお!”な点はたくさんあるのだけど、特に紹介したいのが“日本における人の選抜方法とエリート”に関しての洞察でした。
よく“日本のエリートは自分の利害しか考えない”と言う人がいるでしょ。ちきりん的には、そんなことないんじゃない?と思ってるけど、そういう意見は確かによく聞く。で、だとしたらそれはなぜ?ということへの答えが書いてあった。
西欧のような明らかな階級社会であれば、たとえ形式的には競争という形をとっていても、選抜方法自体の不平等さが目に見えている。だから競争に勝ち残った人々は、勝ち残ったという事実だけでは自分の地位を正当化できない。自分がその地位にふさわしい人間であることを目に見える形で積極的に示さなければならない。そのため、「高貴な義務」(ノブレス・オブリージュ)という観念がうまれる。
つまり、西欧の“勝ち組”は、自分が勝っているのは自分の実力ではない、と理解している。もちろんそれは周りの人にもバレている。だから(後ろめたいから?)貧乏人に優しくしたり、進んで社会のために身を投じたりして、「ほら、ボクも頑張ってるでしょ」と証明しようとする、ってことですね。
ところが日本の選抜システムは形式的には高度に平等で、全員を同じ年齢で一律に選抜にのせる。その上、選抜の方法も主観的な偏りが入りにくいペーパーテストが主で、選抜機会は強く一元化されている。
日本では選抜競争が平等な競争であると信じられてきた。だからその「高貴な義務」という概念すらもたないエリート集団がつくりだされた。
一方の日本では、試験を勝ち抜いた人達があたかも「この結果は自分の実力で手に入れたものだ」と思い込み易い方式になっている。そのためノブレス・オブリージュもエリートとしての責務感もない、単なる既得権益層としてのエリート(オレが実力で得たのだから分け与える必要はない的な)を生んでいる、ということらしい。
この著者の方、ユニークな表現が多くてかなりイケテルと思うのですが、その例のひとつがこれ↓
親の学歴や職業といった資産が、選抜システムのなかで「ロンダリング」(洗浄)されているようなものだ。「本人の努力」という形をとった学歴の回路をくぐることで、得た地位が自分の力によるものになる。
日本では“実力主義ロンダリング”が行われてるってことなのなー。
★★★
もうひとつ。“エリートの自己否定”が社会の要請によってでてきた、という話も興味深かった。
選抜システムはどういうものであれ、必ず重大な問題をひとつかかえる。選抜は少数の「勝者」と多数の「敗者」をつくりだす。「敗者」とされた人はそのままでは当然やる気を失う。その結果、経済的な活力が大きく殺がれ、社会全体も不安定になる。「努力してもしかたない」という疑惑にとりつかれていれば、その危険はいっそう高まる。選抜社会をうまく運営していくためには、「敗者」とされた人々が、意欲と希望と社会への信頼を失わないようにしなければならない。(中略)
それゆえ、「選抜そのものが実は空虚なのだ」と選抜の勝者が言明する。エリートがエリートであることを自己否定する形で、「敗者」の意欲をそがないようにする。簡単に言えば、「ボク、テストでいい点とるのがうまいだけなんです!」とエリート自身が告白したり自己批判することは、この社会の選抜システムにとって、重要な「お約束」のひとつなのである。
そして、この“エリートの自己否定”はエリート自身にも都合がいいと著者はいいます。余計な責任を負わなくてよくなるからね、と。
ふむー。
と、他にも書きたいことはたくさんあるのですが、この“日本におけるエリートの選抜方法”と、“結果としてのエリートの行動様式”の間に、必然的な関係がある、という指摘は、なかなかおもしろい視点だと思いました。学者さんらしくデータも分析もしっかりしてるし。
この本、内心であれ「オレはエリートだ」と思ってる人には必読だと思う。
そんじゃーね!