赤の他人と話す価値

<前回までのエントリ>
第一回 「話し相手を雇う時代へ」


“こころみ”の「つながりプラス」というサービスでは、高齢の親が何かについて「自分の娘や息子には話さないのに、赤の他人であるコミュニケーターには話す」ということがよくあるそうです。

しかも息子や娘は、必ずしも親と疎遠なわけではありません。


母親のためにこのサービスを利用していたある息子さんは、「このところずっと腰が痛くて」という母の言葉を、コミュニケーターの会話書き起こし文の中に見つけてびっくりしたそうです。

なぜなら彼は、その直前の週末に実家に帰省していたからです。そして丸二日、母親と過ごしたにも関わらず、母の腰が痛いなんてことには気が付かなかったと・・・。


おそらく親側が、「腰が痛いなんていうと、心配を掛ける」もしくは、「病院に連れて行かれてややこしい」などと考えたからでしょう。

こういう「身内には言えないけれど、見知らぬ人にならポロリと漏らしてしまうかも」ってことは、高齢者じゃなくてもたくさんあるんです。



(株式会社こころみの資料。以下、当エントリの画像はすべて同ソース)


大学を出たばかりの若者が過酷な条件の職場で働くことになり、過労で“うつ”になったり、ひどい場合は自殺してしまったり、という事があります。

こういうケースでも、本人が素直に弱音を吐け、かつ、客観的にアドバイスできる人が近くにいたなら、難を逃れられた場合も多いはずです。


でも、本人は簡単には弱音を吐きません。なぜなら、

「同期入社のみんなも全く同じ条件なのに頑張っている」し、

「お金を稼ぐというのは大変なことで、つらいのは当たり前だ」と思い込んでいるから、

他社に就職した大学時代の友人にも本音が話せないのです。


親に話せば、「甘えている」「せっかく就職できたのだから、もうちょっと頑張れ」と言われるか、

反対に「とんでもない職場だ。俺が上司に直談判してやる!」「そんな会社、スグ辞めろ!!」と言われるかのいずれかとなり、

どちらの場合でもなんの助けにもならない、と思うのでしょう。

もしくは、「親に心配をかけたくない」と思う心優しい子供もいるはずです。

こうして誰にも弱音を吐けず、必死で頑張っているうちに、心と体を壊してしまう。そういうことは若い人にもよく起こっています。


こういった若者に関しても、“こころみ”のコミュニケーターのように、「親でも子でも友達でもない」他人が、週に 2回、10分間、定期的に話をしてくれていたら、どうだったでしょう?

自分の人生になんの関わりも持たないその人には、
「あまりにつらすぎる」と本音を漏らし、
「スグにでも辞めたいけど、そんなことしたら私はもうどこにも就職できないかもしれない。それが怖い」

などと話しながら、気兼ねなく泣くこともできたのではないでしょうか?



孤独というとひとりぐらしの高齢者とか、友人が少なく、内省的で引きこもりがちな単身者が陥りやすい状況、と思われるかもしれませんが、

妻や子をもつ男性にとっても、「他人と話すこと」の価値は極めて大きい場合があります。


ドラマの中では時々、リストラされたことを家族に知られまいと、毎朝スーツを着て出掛けるサラリーマン男性が出てきます。

それほど(=解雇されたことを隠すほど)極端でなくても、会社での失敗、上司からの叱責、後輩が自分を追い抜いて出世したこと、などについて、妻に包み隠さず話せている、という男性ばかりではありません。


特に、子供が生まれたばかりなど、父親としての責任を痛感している時期なら尚のこと、簡単に弱音は吐けません。

「自分の不安や心配をあからさまに共有し、家族まで不安にさせるなんてとんでもない。これは自分でなんとかすべきことだ」と考える男性も多いのです。


そんな気持ちの男性にも、週に 2回、10分間、話を聞いてくれる「誰か」がいたら? 

キャバクラに通って同じ効果を求めるよりは遙かに安く付くし、そんな息抜きさえしない生真面目な男性にとっても、大きな救いになるのではないでしょうか?



多くの人は、「孤独から救ってくれるのは、何でもわかり合える友人であり、パートナーであり、親子などの家族だ」と考えています。

「お金を受け取り、仕事として話を聞いてくれる人が、孤独を癒やせたりはしない」と思っています。


でも、不幸にも過労死が起こり、親や妻が怒って会社を訴える例を見てもわかるように、疲れ切って死まで選ぶような人にも、自分のことを心から心配してくれる身近な家族がいたわけです。

それなのに、彼らは救われていない。


なぜでしょう?


なぜ、彼らは家族に心のすべてを見せ、救いを求められなかったのでしょうか?


家族とはいえ、心からわかりあえていなかったから、ではありません。

寧ろ反対ですよね。家族があまりに大切だから、話せなかったこともあるのです。


お金を払って話を聞いてもらうことを、友達も少なく、家族もいない淋しい人のためのサービスだと考えると、本質を見誤ります。

人には「大事な人には言えない」ことがあるのです。これからも長く、お互いの人生において関わっていくことが確定している人には、安易に話してしまえない、そういうコトがあるのです。


だからこそ、「誰か知らない聞き手」が必要になる。

赤の他人だからこそ、人を救えることがある。


お金を払って誰か知らない人と話す機会を確保することの価値は、私たちが想像するより、遙かに大きいのかもしれません。



 そんじゃーね。

→ “こころみ”のサービスサイト 「つながりプラス」


http://d.hatena.ne.jp/Chikirin+shop/