追悼 金大中氏

本日は、金大中氏の国葬@韓国です。
追悼の意を込めて、彼の人生を振り返っておきましょう。


1904年 日韓議定書の締結(←植民地化への緒)

1906年 初代統監の伊藤博文が率いる韓国統監府が設置

1910年 日本が正式に韓国を併合

1919年 大規模な対日独立運動である“三・一運動”が勃発

1924年 金大中氏が生まれる。(戸籍の出生日)・・・生まれた時、既に自分の国は存在せず、“日本に支配されている”状態でした。

当時の彼の日本名は“豊田大中”だったとのこと。


1945 年 8月 15日 21才の大学生の時、日本が連合軍に降伏して韓国は日本の支配から“解放”されます。

21才まで“日本の植民地”で育ったのだから、日本語ぺらぺらなのも当然といえましょう。

この瞬間、朝鮮の人は一瞬、希望と喜びに包まれました。ようやく日本から解放されて、いざ自分の国が取り戻せる!と。

が、1948年 大韓民国の建国。
同年に北朝鮮も建国。

解放の歓喜にわいた1945年から3年。朝鮮半島は一度も独立を得ることなく南北に分断されました。
この時、金大中氏は 24才。運送業などで働いていたようです。


1950 年〜 1953年 朝鮮戦争。さらなる不幸の襲来です。

朝鮮半島は、米ソ代理戦争を戦う事態に追い込まれ、国を二分して戦争に突入します。

日本は朝鮮特需で戦後復興のきかっけをつかみましたが、朝鮮半島は 3年にも及ぶ地上戦で完全に焦土化。このとき金大中氏は 26才から 29才。

ここまでの人生を考えると、政治家を志すのも理解できます。こんな状態では、「この国、なんとかせなあかんやろ」と思うよね。


1954年 熾烈な戦争が停戦した後、30才で初めて選挙にでますが落選。その後も 2回ほど選挙にでますがことごとく落選。1961年、37才でようやく初当選。

うーん、結構、遅咲きですね。

少なくとも 30才からは政治家を志していたわけだから、7年間の下積みいうか浪人というか。

当時の韓国の平均寿命は不明ですが、人生 50年と考えると 37才で初めてイチ政治家、というのはいかにも遅いスタートです。

しかもこの 1961年には、朴正煕氏が軍事クーデターを起こして政権を掌握するという大事件が起っていて、これにより金大中氏も事実上、議員としての活動ができていません。

7年もかけてようやく当選したのに、軍事政権でチャラ。不運な感じですよね。


さて、ここから韓国は長い“軍事政権の時代”に突入します。

そしてそれは“軍事化の反対の方向=民主化”を目指す金大中氏にとって「迫害されつづける時代」の始まりでした。

主な事件としては、1973 年におきた東京での拉致事件。

軍政下の韓国を避け、日本やアメリカで民主化運動をしていた金大中氏は、東京のホテルに滞在中、いきなり踏み込んできたKCIAのスパイに拉致されます。

多分殺される運命にあったのでしょうが、事件が表面化し国際社会が騒いだため(日本じゃなくて、主にアメリカが「そんなめちゃしたら、もう韓国のこと支援せーへんで」と言ったため)、5日後に(殺さずに)ソウルで解放。この事件の際、彼は 49才。


もうひとつの事件は、朴正熙大統領の後、同じく軍事クーデターで政権をとった全斗煥大統領に“光州事件”の首謀者とされ、内乱罪等に問われて“死刑判決”を受けた事件。

光州事件は(中国の天安門事件によく似た)民主化運動で、軍部が民主化を求める市民に発砲し(というか戦車で対峙して)多数の死傷者を出した事件です。

韓国市民としては、北朝鮮には狙われてるは、自国の政権も軍で自分達を殺そうとするは、「おいおい、ええ加減にしてくれよ」状態。

軍の発動を指揮した全斗煥氏は、この運動を「北朝鮮と組んだ金大中氏の策謀」とでっちあげて彼を裁判にかけ死刑を宣告します。

こうして死刑囚になった金大中氏ですが、「おいおい、彼を死刑になんかにしたら、一切の援助を行わへんで」と再びアメリカがプレッシャーをかけたため、無期懲役に減刑、その後は刑の執行停止、それから米国へ出国など、と命拾いしています。

この時が 1980年で 56才。

1980年って 29年前ですよね。この時点で“死刑囚”だったんだから、ここからの逆転劇がすごいです。マイナス 100からの大逆転!


その後、1985年に韓国に帰国。

1987年は大統領の直接選挙が導入されるということで、韓国では民主化運動がすごく盛り上がっていました。

金大中氏はここで初めて大統領選に出馬。しかし最終的には全斗煥の子分であった軍人の盧泰愚氏が大統領に。

さらにその 5年後の 1992年に再度、大統領選に出馬するけど、今度は同じ民主化運動家ではあるけど、どっちかというと保守派の金泳三氏に敗れています。

金大中氏って運が悪いのか選挙が下手なのか時代に合わないのか知りませんが、よく落ちる人だよね。

最初に議員になる時も何度も落ちてるし、大統領選もどんだけ落ちてるねん、って感じです。

この 1992年の選挙で負けた時、彼は既に 68才で、次の大統領選は 5年後。普通は「ここで終わり」でしょう。

誰もがそう思ったし、彼自身もここで「政界引退」を表明します。


が、3年後の 1995年には政界に復帰しその 2年後の 1997年 ようやく!!!大統領選に当選。(就任は 1998年で 74才からの大統領)

ここから彼の「逆転人生」が始まります。

彼は大統領として、韓国が南北に分離してから初の「対北宥和政策」、いわゆる太陽政策を採用します。北朝鮮との対決姿勢が変わったのはここが初めてです。


21才の時、生まれた時から日本の植民地だった自分の国が “すわっ独立!” と思ったらいきなり南北に分けられて国土を焼き尽くす戦争が始まり、ようやく停戦、と思ったら軍人がクーデターで政権を握ってしまう。

その後もやっと民主化時代!と思ったら、ライバルの保守派政治家にトップの座をさらわれる。

結局、苦難の政治家は 74才でようやく大統領という肩書き得、悲願の「統一朝鮮」実現への道を突き進んだのです。


そして 2000年、世界が驚愕した「初の南北首脳会議」
金正日氏と金大中氏が平壌で会談。両者満面の笑顔で握手。この時、76才。


その年の終わりに韓国初のノーベル平和賞を受賞。

授賞式で彼は言いました。「私は韓国の民主化のために何度も死線をさまよった」と。

ほんとだよね。よくここまで生きていたよね。上には書いてませんが何度も何度も拷問も受けてます。

任期通り 2003年に 79才で大統領職を辞し、そして先日、死去。享年 85才。

彼の勝因はずばり“寿命が長かった”ことでしょう。

なお今までの大統領の葬儀は大半が「国民葬」で、一段“格”が高い「国葬」は韓国の中でも、朴正煕大統領と金大中氏だけとのこと。

朴氏は大統領の任期中に暗殺されたので「現役大統領のお葬式」だったわけですから、今回は初めての「元大統領の国葬」ということになります。まあ韓国内ではいろいろ意見もあるようですが。


壮絶な人生ですよね。韓国内にはもちろん反対論者も多いのですが、それでも韓国近代史を代表する民主化の闘士、民主化運動家のひとりと言えるでしょう。


ご冥福をお祈りします。


あわせて読みたい → 韓国100年間の指導者達(関連エントリ)


★★★

(余談)

って考えてて、ふと「日本の民主化の闘士って誰だろう?」と思ったりもした。日本で歴史上で有名、もしくは評価が高いのは、


(1)戦国時代の武将(織田信長、豊臣秀吉、武田信玄、上杉謙信等々)
(2)尊皇攘夷時代の武士(坂本龍馬、西郷隆盛、新撰組)や維新の立役者(伊藤博文以下いろいろ)
(3)戦後復興時のリーダー(佐藤栄作、岸信介、ちょっと離れて田中角栄など)


だと思うけど、どれも「民主化の闘士」って感じじゃないでしょ。


なんでだろうね。日本は比較的、民主的な国だったってことかな。んなこともない気がするけど。

戦争前に天皇制や大資本支配に反対を唱えてた共産党のリーダー達を「民主化の闘士」と呼ぶ人は(共産党員以外には)あんまりいない気がする。この辺、おもしろいね。


まあそういうことで。



そんじゃーね。