キャリアの一貫性なんてマジ無用

今回ジャカルタで会った人と話してて、「一貫したキャリア形成が大事」なんて、まったくもって嘘っぱちだよねーと、改めて確信しました。


ある女性は自身の母親がそうであったように、自分も長く働きたいと考え、大学ではデザイン学科に進みます。卒業後は、希望通りデザイン事務所に就職。専門職としてキャリアを積んでいこうと考えます。


でも働いてみたら、「デザインだけをやる事務所ではなく、自社でモノを作っているメーカーで商品デザインを担当したい」と考えるようになり、一年後にメーカーに転職。プロダクトデザイン部門で働き始めます。

頭の古いキャリアカウンセラーからは「石の上にも 3年は我慢すべき。1年で辞めたりしたら絶対ダメ!」とか言われそうですね。


とはいえ、ここまでは、いわゆる「一貫したキャリア」だったのですが、更にステップアップしようと転職したアウトドアグッズのメーカーでは、なぜか広報・PR 部門に配属されます。

大好きなアウトドアグッズのプロダクトデザインができると思っていたので、これには大ショック。いわゆる、「転職してみたら、話が違うじゃん!?」ってやつです。ありがちありがち。


加えて、後から希望部署に異動できたにもかかわらず、今度は思ったほど仕事が巧く回らない。「頑張り続けることで乗り切るしかない」と焦る彼女は、心身ともに疲れ切ってしまいます。

そしてそんな彼女を待っていたのが、店舗部門への配属辞令・・・


デザイナーから広報 PR ,そして店舗販売へとどんどん「分断されていくキャリア」に、「結婚適齢期と転職限界年齢が近づく!」という呪縛、さらには東日本での大震災の発生。

アウトドアグッズメーカーの商品は避難生活グッズとしても使えるため、緊急の注文が殺到します。

工場の横には商品ができあがるのを待つ大型のトラックが横付けし、商品が奪い合われて運ばれていく、みたいな特需が発生。会社も現場も大混乱。。。


こうした現場の混乱を目の当たりにした彼女は、いったん仕事を辞めて心と体を休めようと考えます。いわゆる「キャリアの中断」です。


「そういうことをしてはいけない」と、キャリアカウンセラーは言います。「キャリアにインターバルなんて作ったらだめです。そんなことしたら再就職が難しくなりますよ!」と。

でも糸の切れてしまった彼女は仕事を辞め、失業保険で食いつなぎながら、ぼんやりと日々を過ごします。


その様子を見て友達が、「旅行に行こう」と誘ってくれました。

行き先はバンコク。

そこで訪ねたスパ施設で、彼女は偶然、バンコクに住む日本人向けに作られた無料のタウン情報誌を目にします。(世界のいろんな都市で、こういった情報誌が発行されています)


広報の仕事をしていた彼女は、「こんな情報誌を作る仕事もあるんだ」と気づき、物は試しで、情報誌の発行元企業名をリクナビに入力してみました。

すると・・・なんとその情報誌を作っている会社が、編集職の募集をしていたのです。もちろん、勤務場所はバンコク!


こうして彼女は、バンコクで日本人向けの情報誌の編集の仕事を始めます。帰国子女でもなんでもありません。海外で働くのは初めて。というか彼女は地元で進学、就職したので(今に至るまで)東京で働いたこともありません。


バンコクでの仕事は楽しそうに思えました。でも、こういう仕事でバンコクで就労ビザをとるのはとても難しいんです。そのため、たった数ヶ月で別の仕事を探す必要に迫られてしまいます。

キャリアカウンセラーの人ならこういうでしょう。「よく考えもせず、いきなり海外で就職なんてするからそんなコトになるんです。海外就職なんて、ほとんどの人が失敗するんですよ!」と。


その通りかもしれません。


困った彼女は、他の地域で情報紙を作る仕事がないかと探します。すると、日本人観光客からの人気が高くなったインドネシアのバリ島で同様の仕事があることを発見します。

彼女は迷わずバリ島に移ることにしました。「バリ島ってインドネシアだったんだ!?」レベルの知識と伴に。


ここで彼女は数年働きます。しかし日本人の中には、「大好きなバリ島に住めるなら、給与なんて低くても問題ない!」と思う人も多いため、その報酬は日本はもちろん、バンコクに比べても極めて低い水準でした。

「仕事はおもしろいけど、こんな給与では長くは続けられない」と彼女は悩みます。


これって、アジア就職をした日本人の多くが感じる困惑です。「こんな給与で働いていていいのか? まだ日本で働いていた方がマシだったのでは?」


とはいえバリ島で 2年も仕事をすると、たとえ日本語情報誌の編集という仕事であっても、当然に現地語が求められます。厳密にはバリ島の言葉とジャカルタの言葉は同じではありませんが、彼女はこの滞在期間に、インドネシア語をマスターします。

つまり「安い給与でいいように使われた」とも言えるし、「語学を学びながら、お小遣いまでもらえた」とも言えるってことです。


そんな頃、バンコク時代に知り合った友人から連絡が入ります。「日本の金型メーカーが、ジャカルタの工業団地に進出するんだけど、その立ち上げを担当できる日本人を探してるらしい。誰か適任者はいないかな?」と。


彼女は言います。「あたし、ジャカルタで働きたい。新しい工場の立ち上げ? それ、是非関わってみたい!!」


こうして彼女は金型メーカーの社長と面接。


へっ? 金型メーカー? って思いますよね。大学でデザインを勉強、デザイン事務所から転職してメーカーで広報 PR を担当。その後はバンコクとバリ島で日本人向けの情報誌の取材編集をやってきて 30代半ば・・・


「今から金型メーカー?」 「外国で工場の立ち上げ??」


でも、インドネシア語をマスターした彼女は社長に言い切ります。


「私を雇ってください。決して後悔させません!」

  

採 用!


こうして昨年の夏から、彼女はジャカルタの工業団地にある金型メーカーの工場の立ち上げに関わり始めます。必要な設備を買い集め、インドネシア人を雇い・・・ようやく無事にオペレーションが始まった工場で、今は総務や経理を担当しています。


あれっ? 


経理の経験なんて、あったっけ???


★★★


これから就職する人はよく覚えておきましょう。一貫したキャリア形成なんて幻想です。そんなモノ、ほとんどの人には無縁だし、実際のところ、要りもしません。

世の中は「なんでもあり」なんです。日本語情報誌の編集から、もはや転職は難しいと言われる年齢で、海外での金型メーカーの立ち上げというミッションを獲得できるレベルにはね。


しかも彼女のキャリアは、まだこれから 30年も続くのです。

「今の仕事はおもしろい。やりがいもある。待遇もいい。でも、私もいつかは自分で会社を興したいし、もっと成功したい」

「ちきりんさんの本は全部読みました。30代後半から、40代からでも、新しい仕事ができますよね?」


もちろんです!


新しい仕事もできるし、新しい生活も獲得できる。異なる分野で、もっと大きなことにチャレンジすることも可能でしょう。私はいつか彼女が、インドネシアの経済界で有名な日本人女性実業家として紹介される日が来ても、たぶん驚かない。


★★★


ブログを読んでくれている人に伝えたいです。

・キャリアなんて、一貫している必要はありません。


・一度や二度、仕事から離れる時期があっても問題ありません。


・就いた仕事が思いがけず条件が悪くても、自分がおもしろいと思うなら、やってみればいいんです。条件がすべてではありません。


・転職してみたら、配属された部署が約束の部署と違ってた? まあそういうこともあるでしょう。そして、


・30代でも 40代でも、価値が出せる人は常に求められています。転職限界年齢なんて存在しないんです。

反対に、

・専門性を身につけて、一貫した分野で着実にキャリアを重ねましょう。
・もちろん無用なインターバルはけっして作らず、
・転職回数は 3回までに抑え、
・35 歳を超えたら転職はできないと思いましょう。

みたいにいう専門家様のご意見を信じるのか、

ちきりんブログに書いてあることを信じるのか、

どっちでもいいです。それ自体が、あなたの人生の選択だから。


★★★


私自身、法学部だったのにバブルに惑わされて金融機関に就職し、留学も併せて 7年ほど金融関係の仕事をしました。その後、マーケティングの仕事に転職して 10年ほど従事。今は文筆業を職業にしています。

・法学部
 ↓
・金融
・マーケティング
・文筆業

中には 1年以内で辞めた会社もあるし、何年かやったあと能力不足に気付き、諦めたキャリアもあります。それでも全体としては、何の問題もありません。


「一貫したキャリアを積むべし」などという都市伝説に騙されないようにしましょう。「過去にやってきたことを活かそう」などと、考える必要さえないんです。

時代も変わるし、自分も変わります。やりたいこと、やれることも変わります。その時点その時点で、おもしろそうなことをやってみればいいんです。


最後に堀江さんのスピーチ動画をどうぞ↓

「平成26年度近畿大学卒業式」 堀江貴文氏メッセージ



そんじゃーね!

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