先日、ディズニーランドで遊んでいたとき、ふと見たスマホで村山富市元総理が 101才で逝去されたことを知りました。
人生100年時代とはいうものの、ほんとに100才まで生きられる方は多くないので、思わず「えっ!」と声がでてしまいました。
でもそのとき一緒にいた旅ともは(年齢が若いこともあり)「それ、誰ですか?」と怪訝な顔。
それをみて「そうか、村山さんが単なる元総理のひとりじゃないって、知らない世代がいるんだ」と気づいたため、急遽、このブログを書くことにした次第です。
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村山さんは元首相ですが、自民党の議員ではありません。
社会党の委員長(自民党だと総裁にあたるポジション)も務めた政治家で、いわゆる「左の政党のトップ」です。
よく言われる55年体制とは、1955年に自民党が結成され、社会党と自民党が二大政党的に対立しつつ進んでいく政治体制のことです。
自民党は今と同じで、昭和の富国強兵政策を推進、一方、社会党は憲法9条擁護や日米安保反対、経済的にも弱者への福祉重視と、今の立憲民主党的な立場でした。
戦後から現在にいたるまで、ほとんどの期間、政権をになっていたのは自民党です。なので社会党はつねに最大野党でした。
なんだけど(偶然にも現在と同じように)30年少し前の1993年頃、自民党は国会における過半数を失います。
そして(これまた今と同じように)いろんな政党ができて多党政治が始まり、いろんな合従連衡が始まります。
そして注目の首班指名の決選投票では、なんとびっくり自民党の総裁を破り、社会党から総理大臣が誕生することになったのです。
いわゆる「自社さ連立政権」ですね。
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村山富市氏が総理だったのは1994年6月30日 から 1996年1月11日までと1年半なので、そんなに長いわけではありません。
また、連立政権だわ(当時は自衛隊が違憲だと言っていた)社会党の党首だわで、たいした政策が実行できたわけでもありません。
でもこの人は、歴史に残る談話を発表してるんです。それが「村山談話」と言われるものです。
彼の任期期間をもういちど見てください。
この期間の中に、1995年8月が含まれてるでしょ。
これは、「戦後 50年」にあたります。
このタイミングで彼が発した「村山談話」は今でも日本政府の公式談話としてウェブサイトにも掲載されています。
www.mofa.go.jp
そんなに長くもないので、ぜひ上記の文章を読んでいただきたいのですが、この中には、歴代の自民党総理ではけっして使わない言葉がたくさんでてきます。
たとえば、この一節です。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。
私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。
また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
日本がやったことを「植民地支配」であり「侵略」であると言語化したのは、日本の総理では彼だけです。
アジア諸国への「心からのお詫びの気持ちを表明」と謝罪したのも彼だけでしょう。
遺憾だとか痛恨の極みとかではなく、謝罪の気持ちの率直で平易な言語化は、村山氏の政治的立場と共に、その実直な人となりをあらわしています。
自民党の政治家の多くやその支持者たちは、この村山談話を「屈辱的」と感じるみたいですが、私にはまったくそうは思えません。
自らの過ちを率直に謝れるのは、とても勇気ある行動だと思うからです。
そして全文を読めばわかるように、談話の中で彼は、日本国民として心から誇りがもてる戦後の歩みについてもしっかり言及しています。この文章のどこが屈辱的なのでしょう?
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この村山談話は、「日本が過去の行いを謝罪した証拠」としてアジア諸国の歴史博物館ではよく引用されていますが、実はそう感じているのはアジア諸国だけではありません。
下記をご覧ください。

これも村山談話中の文章ですが、このパネルが掲示されているのは、グアムにある、米軍基地併設の戦争ミュージアム(下記)です。
私がグアムの戦跡や戦争ミュージアムを訪れたのは2015年、ちょうど10年前、すなわち戦後70周年の年でした。

このミュージアムでは、戦後日本の首相の言葉はこれ以外、なにも紹介されていませんでした。
紹介されていたのは、村山元総理の言葉だけなんです。
戦後、大半の期間、日本の政権を担っていた自民党の総理の言葉を、アメリカ軍のミュージアムがまったく紹介せず、社会党トップの言葉をデカデカと紹介していることに、私は衝撃を受けました。
博物館のスタッフは自民党出身の総理の言葉の中から、「いまは日本のトップもちゃんと反省している」と感じられる言葉を見つけられなかったのでしょう。
当時この博物館で展示を観ながら、「村山さんひとりだけでも、総理としてきちんと過去を振り返ってくれていて、本当によかった」と感じたのをよく覚えています。
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博物館には「日本軍の野望」というタイトルで、当時の日本の行為について(アメリカからの視点で)日本語、英語の両方で説明されていました。

この地図を見ると、当時の日本の野望は、今の中国の野望とそっくりだとよくわかります。

博物館内では、これら南の島々で現地の人たちが大変なめにあったことも説明されています。


当時の日本政府&軍部トップの考え方も、下記のように紹介されていました。


あとこちらも。これが米軍のミュージアムであることを考えると、下記の説明文はなかなかに味わい深いです。

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ところで下記のパネル説明、私としてはぜひ中国指導部に読んでほしいなと思ってます。

「あなたたちが今からやろうとしていることは、日本が 90年前にやろうとしたことと同じです。そして結果、日本はアメリカによってボコボコにされました。もし同じことが起れば(当時よりはるかに高いレベルの兵器が存在する今)中国に何が起るかは火を見るよりあきらかです。頼むから当時の日本のような過ちをおかさないで!」と伝えたい。
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ちなみにグアムでは、戦後 28年たったときに横井庄一さんという残留日本兵が見つかっています。
横井さんは戦争が終結したことを知らず、グアムのジャングルのなかでひとりずっと潜伏されていました。

忠実な軍人だった横井さんは、帰国の際、羽田空港に出迎えに来た大臣に、「何かのお役に立つと思って恥をしのんで帰って参りました」と挨拶。
さらに記者会見では「恥ずかしながら生きながらえておりました」と。この「恥ずかしながら帰って参りました」は、この年の流行語にもなりました。
彼だけでなく当時の日本男子の多くは、「戦場から生きて帰ってくるなんて恥である。日本男児なら死ぬまで戦え!」と教育されていたのです。
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グアムには上記の米軍のミュージアムの他、民間の方がグアムに残った様々な戦争の遺物を集めたミュージアムもあり、こちらもかなり見応えがありました。(長くなるので内容は割愛します)

今はすっかり平和になり、一時期は日本人の新婚旅行先、家族旅行先として人気を博したグアムの、とっても平和な景色を最後に載せておきましょうか。

戦後70年の2015年にグアムを訪ねた私は、戦後80年の今年、サイパンを訪れようとしています。
東京大空襲など日本各地を焦土化したB29も、広島・長崎に原爆を落としたエノラゲイも、サイパン近くのテニアン島から飛び立っています。
日本がどんな戦争をしようとしていたのか、サイパンでもしっかり考えてみたいです。

