ミクシィ(Mixi) やブログを含め、ネット上のソーシャルネットワークサービスが人気になって以来、「つながり」という言葉が頻繁に使われるようになりました。
ネットがなかった時代、人と人が「つながる」ことのできる場は、家族や学校、会社などリアルな場所だけでした。
もちろんそれらのリアルなコミュニティで「つながり」を得て、楽しく暮らせる人もたくさんいます。
でも、物理的に時間と場所を共有できる人の数はたかが知れています。
だから、なんらかの面において「マイノリティ」である人は、そういった狭い場所では「つながる人」を見つけられない。
また、なんらかの事情で学校や会社といった「無理矢理にでも人をつながらせるコミュニティ」から脱落してしまうと、すべての「つながり」が一気に失われます。
だから、生まれつき家族とソリが合わなかった人、学校に馴染めなかった人、(仕事としてではなく)所属としての会社に入れなかった人たちは簡単に孤立してしまう。
さらにたとえマイノリティでなくても、学校でできたつながりは時間の経過とともに経済状況や家庭環境が違ってくるため、長く維持するのが難しくなるし、
職場でのつながりについても、同僚には知られてもいいけど上司や部下には知られたくないこともあるし、周りにどう思われるかが気になり、「公にできない個人的な事情」が増えてしまいがち。
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そんな中、インターネットや SNS が出現し、「身の回りの狭い世界とは比べものにならないほど広い世界とつながれる!」と期待した人もいたはず。
ブログやツイッターのプロフィールを見ていると、リアルな生活圏では開示していないであろう誤解されがちな趣味や性的な指向、さらには精神的な病歴や「うまくいかなかった過去」を開示している人がたくさんいます。
身の回りには理解者が存在しなくても、広いネットのどこかにはそういう人がいて、もしかしたら「つながれる」かも。そう期待するからこそ、人はそういった“事情”を公開するのでしょう。
でもその期待は本当に報われているでしょうか?
孤独や生きづらさをつぶやく若い女性には、寂しい気持ちに付けこもうとする人たちが、我先にと返答を送ります。
反対に、つらい人生を吐露し、悲痛な声で助けを求める人に対して、罵倒や「甘えるな」といった説教が浴びせられるケースも。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20170708:TITLE=こちらのブログでも書いたとおり、「完璧なつながり」を求め過ぎたが故に、かわいさ余って憎さ百倍とばかり激しいイジメやバッシングに走るほどの怒りに取り憑かれたり、それらに苦しめられたという人もいるでしょう。
ネットの世界に「つながり」を期待した多くの人が傷つき、利用され、失望している。
つながりたい人とはつながれず、つながりたくもない人ばかりとつながってしまう。そんな現状に手立てが見つからず呆然としてる・・・それが現実なんじゃないでしょうか。
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一方で、大成功とも言えるのがビジネス上のつながりです。
ネットのおかげで今までなら考えられなかった貴重な「つながり」を手にでき、それによって独立できた、資金調達できた、仕事が得られた、ビジネスを大きくできたという人はたくさんいます。
様々な分野のクリエイターで、「ファン」がいるレベルの人たちも同じです。
私自身、ここまで自由な暮らしが手に入ったのは、「ちきりん」という SNS 上に築いた架空キャラのおかげだし、
こちらにも書いたように、ネットを通じて、リアルな生活からだけでは決して会えなかったであろう、多くの人と出会うこともできました。
でもこれらはすべて「ビジネス上のつながり」であって、「個人的なつながり」ではありません。
私には 23万人のフォロワーがおり、ブログの読者も同じくらい存在しますが、だからといって「 23万人の個人とつながっている」と感じることはありません。
私のブログやツイッターを読み、イベントに来てくださる方も同じでしょう。
ファンの方に「私は○○さんとつながってる!」と感じていただくのはビジネスとして重要なことであり、敢えて幻想を打ち砕く必要もないんですけど、
ぶっちゃけ!
「 23万人とつながっています!」とはやっぱり思えない。てか、つながってませんし、実際。
つまりネット上で「ビジネスに必要なつながり」を得ることは容易になったけど、孤独を癒やし、生活を豊かにする(打算や詐欺的な下心を含まない)「個人的なつながり」を得るのは、今でも簡単なことではないんです。
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私には、夢見る世界があります。
それはいつかネットが、もしくは SNS が、そうした損得抜きの個人的なつながりを生み出すプラットフォームとして機能し始める世界です。
「つながり」を生むプラットフォームというと、「出会い系」=婚活相手、もしくは恋愛相手を見つける場ばかりが注目されますが、
世の中にはそういうのではない普通の「つながり」を求めてる人もたくさんいます。
一緒にご飯を食べたり、お茶を飲みながら話をし、たまにどこかに出かける、みたいな友達が欲しい人。
数年前からそういう人向けに、「お金を出して人をレンタルし、悩みを聞いてもらったり相談にのってもらったり、時には叱ってもらったりできる、というサービス」がでてきています。
→ レンタルフレンドのグーグル検索結果
おもしろいと思うのは、これを「ホントの自分」をさらけ出すために使ってる人と、「ホントでない自分」をアピールするために使ってる人がいるってこと。
前者は「家族にも友達にも言ったことがない」悩みや愚痴をレンタルした話し相手に吐露し、
後者はレンタルした友達と話題のスポットで写真を撮り、ネットにアップしてリア充アピールをします。
ちなみにブログでも同じ。身近な人には言えないことを書いてる人もいれば、見せたい自分だけを切り取りって載せることで「現実の自分」とは掛け離れたイメージを作り出したい人もいる。
でもね。
「わかってほしい」「理解されたい」という気持ちと、「こんなふうに見られたい」「こんなふうに思われたい」という気持ちって、ほんとは表裏一体なのでは?
レンタル友達とお出かけして写真撮ってアップする人だって、ホントは「一緒に出かけて写真を撮る友達もいない自分」を開示しても、バカにされたり同情されたりすることなく、そのまんまを理解してくれる「私も同じです」って人と出会いたいのでは?
★★★
私にも解はありません。でもあたしは、市場(マーケット)を信じてる。それはネットを信じてるってことでもあります。
いつか私たちはネットを通じて、「つながりたい人とつながれる」ようになるはず。
どうしたらそういう世界が実現するのか。
ぜんぜんわからないけど、きっとそうなるはず。
そう信じてこれからも発信を続けます。
なぜなら「つながりたい人とつながる」ための最初の一歩こそが、とにもかくにも「発信すること」だと信じているから。
これは、今年最後のエントリになります。
よろしければ下記もどうぞ。7年前のブログです。
→ 「あなたの文章を私は読んでいます」