メディアの誤解

今日は「グーグル」のお話。何かと注目されている会社で、会社についてもいろいろ報道されますが、私たちが直接体験できるサービス自体もなかなかに画期的ですよね。ちきりんも、消費者(ユーザー)としてウエブ検索はもちろん、イメージ検索、マップ、自動検索ニュース一覧などよく使っています。


力を持つモノが批判にさらされるのは世の常。グーグルが言われてるひとつの批判が「ビジネスのための政治性」という話。たとえば日本やアメリカで天安門事件について検索すれば、それこそ五万とサイトが見つかる。しかし、中国国内でこれを検索しても、それらのサイトは「検索結果として表示されない」というような問題です。

こういうことが技術的にできちゃう、というのもすごいし、んなことやれ!という中国政府もすごいし、それに応じるグーグルもすごい。

しかも、心配性な人がより危機感を持っているのは、「中国で天安門事件を検索して何も情報が見つからなくても、天安門事件は存在しなかったと思う人はいないが、もし、もっと微妙なことなら“情報が見つからない”=“事実自体が存在しなかった”と思われてしまう」ということです。

南京虐殺で検索したら「実は虐殺された人数は極めて少ないのだ!」というサイトしかヒットしない、となると、「そーなんだ〜」と思う人が多くなってしまうだろうと。

アメリカでイラク戦争について検索すると、アメリカ兵がどんな人権侵害をイラクでやっているか、という情報は一切検索にひっかからないとかになれば、そういう事実自体が「なかったことになる」ということね。そーゆー懸念を持っている人がいるようです。

★★★

これ、ちきりんはあんまり気にしてない。だって、いくらグーグルが「すばらしい!」ツールであっても、それを「The Answer to the worldだ!」と思ってしまうほど、一般の人たちはバカでもまじめでもない、と思うから。

新聞だってそうでしょう。新聞が書いていることが世の中のすべてだとも、それだけが正しいことだとも、皆思ってないよね。グーグルも同じ。もっと言えばね、「ネットに載っているものが、世界のすべてである」なんて、みんな絶対思わないって。

ちきりんは割と、私たち一般の人たちの視野の広さやバランス感覚や嗅覚について、信頼感がある。少々マスコミや検索エンジンが世界をゆがめて提示しても、それに全く完全にだまされるほど、私たちは子供っぽくない、と思う。


が、ことの本質はそーゆーことではないのかもしれない。すなわち、「それくらいグーグルってすごい影響力を持っている」と思われている、ということなのだ。これは結構画期的だと思う。しかもWSJはアメリカだけで、ルモンドはフランスだけで影響力を持つのに、グーグルは世界全部をフィールドにしようとしている。だから、みな疑心暗鬼になる。


こういう議論の裏には、既存のマスコミのグーグルに対するひがみ・ねたみ・警戒感などがにじみ溢れている。それから彼らの傲慢さもよく見える。彼らの前提は「一般の人はメディアを通して世界を感じている」ということなのだ。この笑っちゃえる滑稽な思いこみが、不必要な「グーグル脅威論」を生んでいる、と思う。

私たちはそんなものを通して社会を見ていない、と思うだよ、ちきりんは。


ネットの他のサービスも同じ。○ちゃ○ねるという巨大掲示板も最初は「世の中変える」みたいに言われたけど、あれで何が変わったとも思わないよ。時間がたてばみな、その「メディア」自体の限界や性格を極めて正確に理解し始める。普通の人のバランス感覚ってすごいレベルだと思う。

なんどもいいますが、こういうものが「世の中を変える!」という人たちは、結局のところ「メディア偏重」という意味で、メディア側の人だと思う。消えゆくメディアの人が自虐的に表現する場合が多いけど、つまりは「そっち側」の人の意見なのだ。



ちきりんは、グーグルファンだし、ブログ書いているし、掲示板もよく見ますが・・・こんなものが社会にもてる影響力はたかがしれている、と思う。朝日新聞が社会に持てる力とせいぜい同じだ。日中、日米戦争に関して「朝日新聞の戦争責任」とか主張する人もいて笑っちゃうんだけれども。そんなことで社会は動いてないだろうと思う。彼らは「国民が喜ぶこと」を書いていただけだ。


世の中を変えうるものは、もっとリアルな何か(体験)だと思う。


ではね。