よど号メンバー9名の記録

1970年 3月 31日、共産主義者同盟赤軍派の 9名が、羽田発 福岡行きの日本航空 351便(通称よど号)をハイジャック。福岡、ソウルを経て北朝鮮に亡命。乗客乗員は最終的には全員解放されました。

この事件、ちきりんは超がつくお気に入りです。

下記は自分用の覚え書きエントリで、たまに加筆アップデートしてます。


<メンバー 9名について>

(1)田宮高麿

大阪市立大学生。赤軍派の軍事委員長。1943年生まれ、当時 27歳
よど号ハイジャックグループのリーダー。乗っ取った飛行機を降りる時、乗客にむかって演説し「我々は“明日のジョー”である」と言った。

1995年 11月 30日、平壌で突然病死(心臓麻痺と発表された)。日本から訪朝していた昔の赤軍仲間、塩見孝也氏と会い、元気に話していた翌朝の突然死であったため、その仲間との“危ない会話”を盗聴されたが故の粛正ではないかとの疑いもある。享年 52歳。

妻は、1953年生まれ。父が朝鮮人、母が日本人である森順子。77年に結婚。森は欧州での日本人拉致に関わったとされ、国際手配中のため帰国できず、今も北朝鮮に在住。


(2)小西隆裕
現在も北朝鮮在住。国際手配中。当時 25歳。現在 63歳
東大医学部 東大全共闘のサブリーダー格であった。田宮亡き後、グループのリーダーとなる。

1975年に当時の恋人であった看護婦の福井タカ子が、小西を追って東欧経由で北朝鮮に入国し結婚。この結婚を機に他のメンバーの“結婚事業”が開始され、北朝鮮に親和性があると判断された多くの日本人女性が日本から北朝鮮に連れて行かれた。妻は現在は日本に帰国。


(3)若林盛亮
現在も北朝鮮在住。国際手配中。当時 23歳。現在 61歳。

妻は黒田佐喜子( 1954年生まれ)専門学校でチュチェ思想研究会の幹部であった。76年に北朝鮮へ。森順子とともに欧州での拉致疑惑で国際手配中。


(4)赤木志郎
現在も北朝鮮在住。国際手配中。 当時 22歳。

妻は金子恵美子 ( 1955年生まれ)同じく専門学校でチュチェ思想研究会の幹部であった。


(5)安部(魚本)公博
現在も北朝鮮在住。旧姓安部。国際手配中。当時 22歳。

妻は魚本民子(1952年生まれ)高校から新左翼活動を始め、プロ学同に参加していた。76年に北朝鮮へ。現在は日本に帰国。


(2)(3)(4)(5)の 4名が現在も北朝鮮で存命中。


(6)田中義三
明治大学在学中に運動に参加。当時 21歳

1996年 3月 カンボジアで偽ドル所持の容疑で拘束され、タイに移送。その後 2000年 6月に帰国し逮捕される。2003年 6月 懲役 12年の判決が確定、収監。 2006年 11月に肝臓癌のため大阪医療刑務所に移監、最後は千葉の病院に移送され 2007年 1月 1日に死去。享年 58歳。

妻は水谷脇子( 1956年生まれ)愛知大学学生の頃から地上の楽園、北朝鮮に憧れていた。77年に北朝鮮へ。1980年にパリで活動中に保護され日本に帰国させられるが、その後 2ヶ月半で逃げだし北朝鮮へ戻った。現在は日本に帰国。


(7)岡本武
京都大学。当時 24歳。
82 - 83年頃( 36歳くらい)に思想再教育の為の施設に収容される。その付近の海岸より漁船で国外脱出を図るが失敗し拘束されたらしい。その後行方不明。強制収容所的なところに送られた可能性が大きい。
1988年に土木作業中の土砂崩れで妻と共に死去したと発表されているが、真偽は不明。いずれにせよ現在はすでに死亡しているとみられる。

日本赤軍のテルアビブ空港乱射事件の岡本公三は弟。

妻の福留貴美子は高知出身。76年に短大卒業。その夏“モンゴルに旅行に行く”といったきり失踪。80年に東京にいたことが目撃されていたとのこと。

二人の子供は他のよど号メンバーに育てられ、現在は日本に帰国。


(8)柴田泰弘
当時 16歳の高校生でハイジャックに参加。ハイジャックの前年、赤軍が山中で軍事訓練を行っていた「大菩薩峠事件」でも逮捕されている。

1985年に東京に潜入し日本で活動していたとみられる。34歳だった 1988年 5月に偽名として使っていた中尾晃として逮捕され服役。懲役5年の有罪判決を受け,1994年、40歳の時に出所。

その後は一般人として日本で暮らしていたが、2011年 6月、大阪のアパートで病死しているのが見つかった。享年 58才。

元妻は八尾恵。1975年、兵庫県出身。高卒。チュチェ研究所に誘われ参加、そこはすぐ辞めていたものの、21歳の時に“すぐ戻れるから無料で旅行に”という口車に乗せられて北朝鮮へ。柴田と強制的に結婚させられた、と後に告白。よど号グループメンバーの、日本人拉致への関与について、本に書いたり裁判で証言している。


(9)吉田金太郎
当時 20歳。ブント系反戦青年委員会で活動。9名のメンバーの中では唯一の高卒労働者。

1973年までは生存が確認されている。1976年にはすでに死亡していたとみられる。( 76年頃から北朝鮮に住み始めたよど号の妻達が、吉田の存在を知らないため)非常に早い時期に粛正されたとみられる。

★★★

最初の 9名のメンバーのうち、(1)田宮、(2)小西は、活発な活動家であり“覚悟のハイジャック、北朝鮮行き”であったと思われます。一方 (3) 〜 (7)の 5名は活動家ではあったけれど、必ずしも覚悟して参加したかどうかは疑問です。

また(8) (9)の 2名、柴田と吉田に関しては年齢も若く、活動も若者の“クラブ活動”レベルのイメージで参加していたと思われ、「ハイジャック、かっこいいっすね!」「北朝鮮か。飛行機も外国も初めてだ。戻ってきたらもてるだろーなー」レベルの感覚で参加したのではないかと想像されます。

いずれにせよ(1) (2)の 2名を含め、その全員が「遅くても数年で帰国するつもり」だったわけで、まさか 40年も戻れないとは全く予想していなかったでしょう。

★★★

9名のうち、粛正されて死亡したと思われるのが 3名です。

まずは事件後すぐに (9)吉田金太郎が躓いています。北に渡ってすぐの時期にメンバー全員が「これはやばい」と感じました。他メンバーは皆、瞬時に「今どのような態度をとるべきか」を察知し、北朝鮮体制に媚び始めます。

しかし吉田は若く、ひとりだけ(理屈をこね回す大学生活動家ではなく)純粋な労働者代表であり、シンプルに「これはおかしい」「僕は帰りたい」と主張。北朝鮮生活になじめず、結果として再教育施設に送られたとみられています。


次に脱落したのはエリートの岡本です。

彼が反逆を始めたのは北に渡ってから 10年を過ぎた頃。このままでは一生日本に帰れないと感じたタイミングだったのでしょう。

しかし密航脱出をはかったことで、粛正から逃れられなくなったとみられています。彼がこの時、密航脱出に成功し日本に帰国してすべてを暴露していれば、拉致問題も今とは全く違う展開になったかもしれません。


最後に田宮。25年にわたって慎重にメンバーを率いてきた彼ですが、日本で服役していた仲間の塩見が出獄して北にも訪ねてくるようになり、気がゆるんだか、北の当局を甘くみたのか。塩見にたいして(酒の力も手伝い)拉致への関与に関してなんらかの事実を漏らしたことで、翌朝に殺されたと(ちきりんは)みています。

これは、よど号ハイジャック犯を「彼らは革命の子だ、面倒をみてやれ」と指示した金日成が死去した翌年のことです。

彼らを保護すると決めた金日成のいる間は、疎ましくても手がだせなかったよど号メンバーも、今は北朝鮮からみても相当程度「うっとうしい奴ら」なのでしょう。


他のメンバーが今でも北朝鮮を礼賛し、決して拉致等についての口を割らないのは、「何か言えばいつでも自分は殺される」ということを十分に理解しているからと思われます。

特に田宮の死は、彼らに「自分たちの立場」を知らしめるのにあまりにわかりやすい事件だったろうと思われます。


その他は、3名が粛正で死亡の他、 1名が日本で投獄中に病死。 1名は逮捕服役を経て自由に(その後、2011年に死亡)。残りの 4名が北朝鮮に残っています。

★★★

なお、彼らの生活は最初は北朝鮮が丸抱えしていたようですが、途中からは日本とのつながりを活かして外貨ショップを運営し、外貨を稼ぎ、北朝鮮政府にもそれなりに上納している様子です。

「革命だ」、「世の中を変える」、「労働者の権利を守るために資本家を倒せ」と叫んだ若者達が、賄賂で潤う北朝鮮の特権階級相手に、安っぽい腕時計や外国製のシャンプーやチョコレートを転売することで生計を立てているというのは皮肉なことです。

実際には日本人拉致に加え、偽ドル、偽円、やくざ相手の商売(薬系)など、もっと多くの“人様に言えないこと”にも携わってきた可能性もあります。

元左翼少年の志は今どこに。

★★★

なお、“よど号の妻達”も小西の妻の福井タカ子を除けば全員が騙されて北朝鮮につれていかれており、そのまま監禁されているわけで広義で言えば誘拐監禁(拉致)事件です。でも今までのところ多くが北側の主張に沿った発言をするなど「幸せそうに」されています。

彼女らは日本国中からばらばらに集められているのですが、最初から「文句を言わなさそうな人」を選んでつれていっています。

たとえば片親が北朝鮮の人であったり、在日の人であったり、そうでなくてもチュチェ思想研究会に入るなど北朝鮮に興味があった女性らです。おそらく彼女らを日本国中から見つけてきたのは朝鮮総連の各支部でしょう。

ただ、今問題になっている拉致問題では、そういう北との親和性は全くない人達が大勢連れて行かれています。

なぜ、日本海側の小さな町とかからいきなり子供や若いカップルを拉致せずに、よど号の妻の場合のように「北に親和性のある人」を連れて行かなかったんだろ?ってのは疑問です。その方が、現地で定着させるのは明らかに楽なはずなのに。

ここはまだよくわかんないところですね。

★★★

よど号事件には興味深いエピソードも多いです。


エピソード1

よど号のJALパイロットだった石田機長。北朝鮮から無事日本に戻ってきた後、マスコミが追っているのも気づかず愛人の自宅に帰宅し、不倫が公になって大問題に。結局、日航を退職。その後も不遇な人生をおくり、最後は夜間警備員に。2006年に死去。


エピソード2

山村新治郎 運輸政務次官(当時)が、ソウルから人質の代わりとなってよど号に乗り込み、北朝鮮に向かいました。これにより“男・やましん!”“身代わ新治郎”などとマスコミにもてはやされ、「これで一生、選挙は大丈夫」と言われた・・・にもかかわらずその後落選。

北朝鮮でよど号メンバーと別れた後も、なにかとよど号メンバーのことを気にかけていたが、1992年、事件から 22年ぶりに北朝鮮を訪問するその前日に、自宅で次女に刃物でめったつきにされて死亡。

この次女は“男やましん”が北朝鮮から帰国した際は 2歳で、空港まで迎えにつれていかれてます。このことから世間の注目をずっと受けつつ育った次女は、父親殺害の際、精神を病んでいたと言われている。


エピソード3
本当はハイジャック計画のリーダーは当時、共産主義者同盟赤軍派議長の塩見孝也のはずであったが、実施予定日 2週間前の 3月 15日に喫茶店で公安に見つかり逮捕されている。公安は塩見の手帳に“ H・J ”というメモを見つけていたがこれがハイジャックを意味すると全く気がつかなかった。

塩見はそのまま20年弱の投獄生活を送り、非転向のまま 1989年の平成の世に出所。出所直後は出版講演など活発に活動していたが、現在は「その辺のおじさん」として平和に過ごしている?


エピソード4
よど号には 131名の乗客が乗っていたと言われているが、実際にはもう 1人乗っていたという報道がある。その一人は、当時米軍が事実上占領していた韓国のソウルで米軍側に紛れ込み、他の人質とは別ルートで脱出したと言われている。

この人物は、キリスト教の布教に来日していると見せかけた米国側スパイであったと言われており、北朝鮮に連れ去れた場合、機密がもれることを恐れた米国側がこの人物を取り戻すために、よど号事件解決に積極的に協力したと言われている。


エピソード5
ハイジャック計画はもともとは 3月 27日に行う予定であったが、メンバーの多くが“遅刻”し、実際に飛行機に乗れた人数が少なすぎたためこの日は延期された。

遅刻の理由は、大半が貧乏学生のため飛行機の乗り方を知らず、電車のように 5分前に駅に着けば乗れると思い込んでいたため。予約が必要だと知らない者もいた。

また彼女の家で最後の別れを惜しんでいて寝過ごしたメンバーもいた。遅刻せずに飛行機にのったメンバーは福岡に着いた後、所持金の少なさから飛行機で羽田に戻ることができず、夜行列車で東京に戻った。

なお、31日の実行日にも参加予定メンバーのうち何名もが当日現れなかったため(結果として)難を逃れている。


エピソード6
よど号はソウルの金浦空港に着陸し「ここが北朝鮮だ」と言われたが、空港には迷彩色の軍服を着た黒人兵が多数おり一目で「米軍の管理下の韓国」であるとわかる状態だった。

田宮らは「ここが北朝鮮だというなら金日成の写真を持ってこい」と言った。そんなものあるわけもなく、田宮らは「ここは北ではない」と見破ったと言われている。

これは田宮偉い!と言いたくなるエピソードに聞こえるが、実際にはもしも北朝鮮でそんなことを言っていたら「なんだ、首領様の写真をもってこいだと!?」と怒りを買ってその場で殺されていた可能性もある気がするので、不幸中の幸いだったかも。


以上です。

ほんとにこの事件はおもしろい。

リーダーの田宮が、「時代と共に幸せに」なった邊見氏と 2歳違いと、ほぼ同世代であることも興味深い。同じ時代に生まれてこの人生の違い! びっくりじゃない?


そんじゃーね。


よど号事件を知りたい人はまずこのドキュメンタリーを読むべき。名著です。


この本の内容はかなりゾクッときます。まじっ?って感じ。


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