貸金業で財をなした「紀州のドンファン」とかいう 70代の資産家男性が、若い女性と結婚後すぐ怪死というニュースを見ていると、つくづく「ものがたり受難の時代だわね」と思う。
数十億円の資産があり、50歳も若い女性と結婚したのに女性側は結婚したことを親にも言っておらず、和歌山の自宅での同居もせず、月 100万円のお小遣いをもらっては東京で暮らしてた。
で、結婚の数ヶ月後に資産家が大量の覚醒剤服用で怪死。
こんなベタなストーリーでは小説コンクールの一次審査も通りそうにない。
そんな「素人が書いたお手軽な推理小説」みたいな話が、実話として報じられてる、のが今の時代。
事件系の話だけではありません。将棋棋士の藤井聡太七段。
つい最近「中学生として最年少でプロ棋士に!」とか言ってたのに、あれよあれよという間に全棋士参加の棋戦で名人も竜王も破って優勝してる。
将棋漫画でこんなん書いたら、「マンガだと何でも書けていいよな」と鼻であしらわれそうなくらいリアリティがない。
それが現実に起こってる。
大ケガをして数ヶ月もの間、表舞台から離れていたのに、ギリギリに現れたオリンピックで連覇してしまう羽生結弦選手についても、もしこれが映画なら「限りなく嘘っぽい話」に見えたはず。
「客を感動させたいがために、本番まで姿を一切見せないなど、安っぽい復活劇を演出した陳腐な映画」とか酷評されそう。
プロなのにピッチャーで四番という「野球漫画かよ!」みたいな活躍をする大谷翔平選手も含め、最近はあちこちでリアルがフィクションを超越してしまってる。
★★★
川端康成氏の代表作「雪国」の書き出し、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という文章はあまりにも有名だけれど、この小説が書かれたのは 1935年、昭和 10年あたり。
この頃、日本人のどれくらいが「汽車に乗り、雪国への旅行」ができたか考えてみてほしい。
そんな贅沢のできる人はごくごく限られてたはず。
山村に生まれ、一生、海を見ないまま人生を終える人や、暖かい場所に生まれ、一生、雪など見ないという人がたくさんいた時代、
「トンネルを抜けるとあたり一面の雪景色!」という描写がどれくらい衝撃的であったかは、よくわかる。
当時、ものがたりが提示する世界は、多くの人にとって現実を遙かに超えていた。
だって誰も、そんな景色見たことない。
そんななか、読み手のアタマにその情景をアリアリと浮かばせる文字(文学)=フィクションの力。
でも、
今やふつーの生活をしてる人でも地球の裏側まで行って、ウユニ湖だのナスカの地上絵だのまで見てこれる。
ケニアにいけば、ライオンがキリンを喰ってるのを数メートル手前で観察できる。
こうしてリアルに手の届く範囲があまりにも広くなってしまったがために、
リアルを超えたフィクションに触れることは、昔に比べて遙かに難しくなった。
あたし自身、小さい頃はマンガも小説もよく読んだ。
小さく地味な地方都市で狭い世界に生きていた私にとって、ものがたりの世界は圧倒的なスケール感ときらめきに包まれていた。
マンガ「ベルサイユのばら」で繰り広げられるフランス貴族達の服装や生活は、決してリアルな日常の延長線上にあるものではなかったし、
小説「ナイル殺人事件」の舞台となるエジプトの大河、古代の遺跡の描写は、自分が住むリアルな世界とは掛け離れたエキゾチックなものだった。
自分の日常のどこを探しても、その 10分の 1のワクワク感さえ得られない。
あたしがむさぼるようにマンガや小説を読んでいたのは、フィクションがリアルの世界より遙かにおもしろかったからだ。
でも大学に入った頃から、小説、もっと広く言えば「ものがたり」を読むこと自体、急激に少なくなった。
それはリアル社会のほうが、ものがたりよりも遙かにおもしろいと気づいてしまったから。
時はバブル。
周りで実際に起こっていることは、信じられないような、ありえないような、どんな小説でも読んだこともないような出来事ばかりだった。
そしてこの頃から私は、急速に「リアル社会の人」になっていく。
最近はビジネスもテクノロジーも同じだと感じる。
手塚治虫先生のアトムも、藤子不二雄先生のドラえもんもスゴイ。
それらは確実に当時のリアル(多くの人の現実の生活)を超えていた。
リアルにはありえないものが、ものがたり(フィクション)の中ではいきいきと描かれ、読者を夢の世界に引き込んで、興奮させた。
それが、スマホがでてくる 5年前にさえスマホを夢想できた人は誰もおらず(いたとしたらあの人ひとり)、
「銀行」というもっとも固いと思われていた業界が丸ごと消える、そんな、ちょっと前なら小説に書いても「リアリティが感じられない」と切り捨てられそうな事態がリアルに起こりそうになっており、
ビットコインで遊んでいたら、一生働いても手に入らなかったであろう額の資産を手に入れたという人や、一瞬のうちに数百億円をハッキングで失った金融機関が、小説の中ではなくリアルな世界に存在してる。
こうなると、ものがたりが描写するのは「未来」ではなく「リアルの実相」にならざるを得ない。
「こんなに孤独な生き方がある」
「こんなに辛く苦しい気持ちがある」
「こんなやるせない現実がある」
みたいなリアルの実相。
最近の文学賞を採る小説は、そういう「リアルな生活のやるせなさ」を描くモノばかり・・・
こうして今や、ものがたりは「ワクワクできる想像を超えた世界」を見せてくれるものではなく、「つらく切ない人間と社会の実相」を深掘りするものになった。
でもそんな「リアルの実相」をいくら上手く描いても、フィクションはリアルを超えられない。
てか、それもはや「ものがたり」とは違うやん!
だってそれ、「リアル」を描いてるだけだよね?
いわゆる「ノンフィクション」とどう違うの?
小説ってノンフィクションのはずなのに、「リアルのほうがおもしろい時代」には、ものがたりを紡ぐはずの人でさえ「リアル」を描くしかない。
そういう時代になってしまってる。
★★★
その昔、汽車に乗っての長旅など一度もしたことがない多くの人が感じる、「真っ暗なトンネルの先に突如として現れる雪景色の衝撃!」を与えてくれるのは、今や「リアルな人」であり「リアルな社会」のほうになった。
現実離れした才能を持つ若いアスリートや勝負師達
想像を超えたテクノロジーによって驚くべき速さで変わっていく生活
人生 100年が“当たり前”になって、遺伝子操作によるデザイナーズベイビーが“作れる”時代
ものがたりはホントに受難の時代だと思う。
いつかまた、ものがたりが現実を超えられる日はやって来るんだろうか?
そんな疑問が生じるほどに。