自由であること

今日の表題は、ちきりんがプロフィール欄で「人生のテーマ」としている「自由であること」

これって言葉にしただけで黙ってしまうくらいちきりんにとっては大事な言葉。いつもいつも自由に生きたいと思っているけれど、自由に生きられているとは一度も思ったことはない。死ぬまでにそういう境地に達することができるのか、半ばあきらめながら、それでも一生のテーマとしてはこれ以外思いつかない。

自由に生きることを意識したのは大学生の頃だと思う。当時ちきりんは一人暮らしを始め、誰にも制約されず、大学だって行く必要もないし、なんの悩みも課題もなく、まるであたかも“自由であるかのように”生きていた。

そしてそんなさなかに、というか、そんな生活をしていたからこそだと今は思うけど、「あたしは全く自由じゃない」と気がついた。

形式的に自分を縛るものがあると、たとえば生活のために働かなくてはならないとか、何か世話をしなくちゃいけない人がいるとか、なんでもいいのだが、そういうわかりやすい縛りがあると、まるで自分はその縛りがなければ自由になれるかのような幻想をもつことができる。もしくは「自由にいきられないことの言い訳」を非常にたやすく手に入れられるとも言える。だから悩まなくて済む。

だけど、そういう縛りが何もない生活をしてみると、「じゃあ、自分の今の生活は自由なのか?」という問いが顕在化してしまい、ああ、全然自由じゃないよね、ということがわかってしまう。そして自分がいったい“何から”自由でないのか明確になってしまう。

そういう意味で、ああいう脳天気な生活を数年でも送ってみることは、それなりに意味があると思います。

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たとえば「自由だから他人を殺していいか」と言えば、それはNoであろうと思います。しかしながら、最大限大きく境界線を引くとしても、たとえば「他人に迷惑をかけてはならない」というところに線をひいたとしても、「やってはならないこと」などというのは非常に少ないのです。

実際には他人に迷惑なんて全然かからないのに、「やってはならない」と自分で思っていること、いや「私がやるべきことではない」と思い込んでいることはやたらと多く存在し、自分でも驚いてしまう。好きなように生きているようでいて、結局そういう「“なんとなく”やってはいけないと思い込んでいること」には一切足を踏み入れない。

そういう生き方について、あまりに「自由」という言葉からは距離があり、時に自己不信というか、あきれかえってしまってクラクラしてしまうほど、であったりする。

たとえばちきりんは、自分の収入以上の生活をしたこともないし、幼稚園から大学院まで一度の寄り道もせずレールを踏み外すことなく、その後だって、ずうっと正社員で働いているわけで、こんな人生が「自由に生きていたら」起こっているわけはない、と思います。

明らかに自分にたいして自分で「まっとうな人生」の枠、というものを設定していて、「その範囲内だけで」やりたいこと、好きなことを選んできた、その結果がこれってことでしょう。

経歴の話だけではない。一度だって「平気で人を傷つけたり」「生活の規律が全くない」ような人たちと人生を真剣に共有したことはなく、友人というレベルで関わる人でさえ、「一定の規律の上に生きている人」ばかりであるという事実を、「自由に生きてはいるがたまたまそうなっているのだ」と言い張れるほどには、残念ながらちきりんは厚顔でも無知でもない。

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遺伝子でそんなことが規定されているわけはなく、当然、小さい頃から育ってきた環境、受けてきた教育、自分で選んで取り込んできた考え方などが、ちきりんに無意識に、そしてあまりに奥深く「まっとうな生き方」なるものをすり込んでしまっている、と思うわけ。

それに気がついたのが18歳くらいの時だった、ということ。



たいていの場合「自由に生きている人」というのは、「火宅の人」であったり「破綻した人格」と言われていたり、「情死」や「のたれ死」に近い形で人生を終えていたり、いやべつに、そうなりたいわけではないし、そんなものに、デカダンという言葉の下に?、甘美な夢をみているわけでもない。

しかしながら、彼らがおそらく経験したであろう「精神の自由」というものが、結局のところ決して手に入らないと観念しているからかもしれないけれど、それはちきりんには余りにもまばゆく、尊く、貴重なものに思えてたまらない。

そういうものを一度も手に入れないままに自分の人生が終わってしまうとしたら、それ以上に悔しいことは存在しないと、歯ぎしりをしたくなるような焦燥感に襲われる。



一生に一度も自由に生きられないとしたら、私が私に生まれてきた意味はどこにある?



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今までに何度か、この人生の縛りに対して(それなりに本気で)挑戦しようとしたことがある。そしてそのたびに、自分が自分の人生に押しつけている規律という縛りのあまりの強固さに打ちのめされ跳ね返されてきたわけだ。

そして中途半端に挑戦することでかえって、その壁の絶望的なほどの高さに気がつき、結局あんぐりとしてしまい、いつものようにお天道様のサイクルにあわせて生活するという“まっとうな”生活に戻っていく。「ああ、あたしのような人間のレベルでは、居るべき場所はせいぜいここなのだ」と諦念しつつ。



なぜ自由に生きられないのか。それはもう明々白々に理解できている。ひとつは「怖い」から。もうひとつは「プライドが邪魔している」から、だろう。

自分がコントロールできると把握できている地帯の外に足を踏み出すことは、本当に怖い。時々こっそり覗きにいったりはするけれど、小心なちきりんにできるのはせいぜいそこまでだ。こっそりのぞいて、ピンポンダッシュで帰ってくるのだ。安心で安全で心地よいあたしの世界へ。

プライドの方もね。こんなものがなければ、ちきりんの人生は本当に大きく違ったものになっていただろうと思う。人間って(てか一般化する必要があるのか?)、なんでこんなややこしい感情を持っているのだろう。


自由に生きないことと引き替えに、ちきりんは“それなりの”人生を手に入れている。




自由にいきること。

いつかそうなりたい。

人生の間のごくごく短い時間でもいい。


自由に。



じゃ。