時代と共に幸せに

何かの手違いで(?)「イトーヨーカ堂 成長の源流」という本を読んだ。イトーヨーカ堂の元常務の邊見敏江さんという方が書かれた本。

イトーヨーカ堂成長の源流

イトーヨーカ堂成長の源流


ヨーカ堂社史と、“業務改革”というあの会社独自のオペレーションについての紹介本、を足して2で割ったみたいな本ですが、同時に著者・邊見さんの自分史という側面ももっており、各所に“時代背景”が見えて、それがとても興味深かった。

本の“帯”は、イトーヨーカ堂の名誉会長の伊藤雅俊さん。いわく「商人・経営者として私が大事にしてきた「お客様第一」「従業員第一」という創業期の理想を邊見さんが具体的な形にまとめてくれました。」と。


正直、邊見さんなんて誰も知らないでしょ?


でも、イトーヨーカ堂の伊藤さんが“帯”を書いてくれたら、この本は「イトーヨーカー堂 WAY の正史」として認められる。つまり邊見さんというのは、そういう立場の人(イトーさんが帯を書いてくれる立場の人)ということです。


★★★


で、彼の人生なんだけど。


長岡近郊の街に1941年に生まれている。貧乏でも金持ちでもない普通の家。実家は小さな商売と農業をやっていた様子。6人兄弟の4番目というのも、当時としてはごく普通の家族構成だと思う。

1941年生まれだと物心ついたら戦後だから戦争の記憶はないでしょう。田舎だから戦後の混乱にも巻き込まれず、貧しいながらも楽しい我が家、という感じでごくごく平凡に育ってると思われます。

で、まず、高校進学時の話がこれ。

地元での進学校は長岡高等学校がトップだったが、私は父と兄・光雄のすすめもあり、長岡商業高等学校への進学を決めた。しかし私の本心としては、商売というもの自体があまり好きでなく、商業学校を卒業しても違う道に進みたいものだとの思いをずっと持ち続けていたのであるが、進学校への受験は父が許さなかった。


「父と長兄」という「家長」がその下の兄弟達の進路決定にもっている権限というか影響力がよくわかる文章だよね。今の人が読めば「なぜ長兄が?」って感じかもしれない。

時代って本当に大きく変わる。彼が15歳の時だとして1956年の話です。いったいこの後何年くらいまで、こういう「進学校の受験を許さない父」というのが、ごく当たり前に存在したのだろうね。

当時の田舎では“地元トップ校”に行く、というのは大学に進学するかもしれない、ことを意味し、それは「稼ぐのが遅くなる人生」を意味する。今で言えば「博士課程に行く」のと同じくらい覚悟のいることだった。だから「父が許さない」わけです。

というか、“進学校”とは文字通り“大学に進学するための高校”という意味であり、反対に言えば“進学校以外”を出たら皆高卒で就職する、仕事を始めるということ。そっちのほうがまだ一般的であった時代、ということです。



そしてこの文章もおもしろい。高校卒業時に東京に出ることにした時の記述です。

兼業農家の三男である私は、ふるさとに残ることはできず、ともかく家を出ることが義務づけられていたのだった。

なるほど。東京に出たいから出る、のではなく、「三男だから出る」のです。そして反対に言えば「長男だから地元に残って田んぼと家を引き継ぐ」のです。何番目に生まれた男か、で人生が決まってしまう。

さらに女であれば「女に生まれた私は進学や就職などはできず、二十歳前に嫁にいくことが義務づけられていたのだった」となるわけですね。


★★★


イトーヨーカ堂の入社面接は、その頃まだ36歳だった青年経営者の伊藤雅俊社長本人が担当しています。受ける側はなんと、お母さんも同席しています。


18歳だし田舎から出てきて面接受けるのだから、母親同席ってのは当然なのかしら?と思って読んでいると、やりとりはこんな感じ。

いま思い出してみると、入社面接でのやりとりはこのようなものであった。


まず伊藤社長と母との応答であった。
「大切なお子さんを預かることになるが、心配はありませんか?」
「ええ、大丈夫です。」
「東京での生活に不安があると思いますが、東京にはご親戚などいらっしゃいますか?」
「弟が葛飾区の水元小合町におりまして、連れ合いの姉が世田谷区北沢におります。」


そして私の番がきた。
「小売業はとても大変な仕事で、朝早くから、夜遅くまで働かなくてはならないが、やっていける自信はありますか?」
「ハイ!」
「希望する仕事はありますか?」
「事務系の仕事を希望します。」


簡単な応答の最後は伊藤社長の一言で締めくくられた。
「就職担当の山田先生からもよく頼まれています。ご心配なく。」


私は晴れてヨーカ堂の社員になったのである。


どう??

こーゆー面接で採用が決まるわけですよ。そしてこの人は、この後46年この会社で働くことになる。46年ってほとんど半世紀ですよ。「お子様を預かります」で46年。すごい長い期間、預かっちゃったね・・。


1959年というのはそういう時代だったんです。

時代ってすごい。



仕事はね・・・

また仕事もきつかった。朝9時から夜10時頃までデスクに向かって仕事を続け、休暇も月に一日あればいい、というハードワークであった。男性社員はすべて会社の寮に住み込みで、会社の通りを挟んで向かい側にあった寮や歩いて3分くらいの寮と、職場を往復するだけの毎日に辟易していたのも事実である。


当時はどこも週休二日ではないけれど、それにしても一日13時間労働で月に一日休めるかどうか、なんて今なら確実にブラック企業扱いされるだろし、“搾取されてる”“耐えられない”と大騒ぎになるに違いない。

こんな働き方が当たり前だったのもこの時代、ってことです。その代わり、毎月家には新しい家電が増えていくなど、皆が「豊かになっていく実感」が持てていた時代です。

それと、こんな働き方ではそりゃー「男しか採用しない」のは当然だろうとも思います。夫と妻の“分業”が不可避な働き方ですよね。


★★★


そして彼は、成長を続けるイトーヨーカ堂と共に順調に出世の階段をあがっていき、まだまだ貧しい日本で早くから海外出張や海外視察の機会を得たり、休職して大学院で学ばせてもらったり、ハーバードビジネススクールがイトーヨーカ堂のケースを作る時の担当者になったりという経験を積んでいく。

本を読んでいると、希有な経営者であった伊藤氏の右腕として順風満帆の職業人生を歩んでいく様子がよく分かります。まさに「高度成長する日本」と成長の歩みを合わせ、幸せな古き良き時代を生きた人。そして長生きし、人生を振り返る自伝的な本を出したら伊藤元社長が“帯”を書いてくれた。


こんな幸せな人生あるかな?


と思うような人生に見えます。



もちろん裏返しとして、全く家庭を顧みることのないハードワーカーだったと思うし、会社が成功したのも、彼が出世したのも「時代だけ」の理由ではないでしょう。この時代の人、皆が皆そういう体験を得られたわけでもありません。

でも、この時代にはやっぱりこういう「時代と共に幸せだった」という人がたくさんいたのだろうと思います。



引退後はいろんな大学で教鞭もとっている。今は東京大学ものづくり経営研究センターの特任研究員だそうです。そして66歳の時、人生の集大成としてこういう本を出す。

本の印税が必要なわけではない。イトーヨーカ堂の退職金も(最低2回分、社員と役員と)あるし、桁違いに安く買ったセブン&アイグループの株式もたっぷりお持ちでしょ。年金も十分に逃げ切り世代です。


父と兄に進学校へ進むことを止められた三男坊は商業高校で簿記を学び、
「三男だから家をでるしかなく」高卒で東京にでて就職することになり、
「高校の就職担当の山田先生が勧めてくれた」中堅小売り業の会社の面接で、
「大事なお子さんを預かります」と言ってくれた何代目かの若社長とその会社に、人生のすべてを捧げてきた。


そしたら幸せな人生だった。



「時代と共に幸せになれる」というのはこういうことだ。


「時代と共に不幸になりつつある若者達」にはまばゆい歴史なんじゃああるまいか。



そんじゃ。