時代に捨てられる男 小沢一郎

西松建設の献金の件、詳しいことはわからないのだけど、ひとつ思うことは、これで「民主党政権」はあり得ても、「小沢政権」は無くなっちゃうんだろうな、ということ。

1993年、今から16年前に自民党と袂を分かち、まさかこんな長く在野におかれるとは全く想像していなかったであろう小沢氏。何度も遠のいた“政権取り”が目前となったこのタイミングでの公設第一秘書の逮捕。なんとも無念だと思う。


「自民党をぶっ壊す!」と言えば小泉元総理のキャッチフレーズだけれども、実際には小泉氏は自民党をぶっ壊したりしていない。「ぶっ壊す!」と言うことにより自民党を最大限活用し、むしろ自民党の延命に貢献したとも言える。

一方の小沢さんは実際に自民党を離脱した。剛腕幹事長としてそのまま自民党にとどまれば総理になれる可能性は十分にあっただろうに、彼には彼なりの美学や理想があり、譲れないプライドもあった。最近は「選挙で勝つためなら何でも飲み込む」といったスタイルだけれど、当時の彼が唱えていた未来の日本の形は、小泉元首相が唱えたような新自由主義的な色合いも濃いものだったと思う。

しかしながら、彼が「古い自民党」との決別をした時代、あの時にはまだ世間は自民党以外を信じていなかった。それからずっと後になって小泉さんが「このままの古い自民党ではだめなのだ」と言い出した時に、世間は初めてその主張に耳を傾けた。

小沢さんが自民党を見限ったタイミングはいかにも早すぎた。



また、彼が剛腕と言われたのは、自民党において表に立つ首相よりも、永田町の闇で力を振るうキングメーカーの方が権力をもっていた時代だ。財界とべったりで、豊富な政治資金を集め、その資金を派閥の議員達の地盤である地方の選挙区にばらまかせて議席を確保する時代だった。

その方法に誰よりも長けていた小沢氏は、しかし、メディアや国民との直接的な対話や、「永田町の渡り方」とは異なる「世間の渡り方」がいかにも下手くそだった。その後にやってきた“メディア政治時代”には、シンプルでわかりやすく親しみやすい小泉さんの人気に圧倒的な差をつけられた。人前で話すことが苦手で、メディアと対立し、政治を裏で牛耳るスタイルの小沢氏には、致命的に不利な時代の到来だった。


時代に先んじていたはずの小沢氏が、完全に時代においていかれたのが小泉時代だった。そしてほとんどあきらめそうになりながらも、彼は踏みとどまった。必死で時代にすがりつこうとした。“格差”に注目し俄に“弱者の味方”を気取った作戦は一定の成功を収めた。それをうけて、“格差”に敏感になった“世間のトレンド”を利用して再浮上しようと考えた。

地方にバラマキ、労組に頭を下げる。憲法9条を後生大事にする議員達と党を一つにし、頭でっかちな官僚出身議員に根気よく“政治”を教えようとした。以前の小沢一郎からは想像もできないような変節をへて、信念を捨ててでも政権を取りにいこうとしていた。

しかし、おそらくそれが裏目にでた。“媚びる小沢一郎”をみる世間の目は懐疑的なものだったと思う。「この人が弱者の味方だったことなんて、過去に一度でもあっただろうか?」昔を知る人は皆そう思っていただろう。

それでも満身創痍の体にむち打ち(首に医療用マフラー、顔に大きなマスクの小沢氏は痛々しい限りだった。)、政権取りまで後一歩というところまでやっと辿り着いたこの時に、彼は倒れようとしている。


ちきりんは彼を見ていると、野村監督とその姿がかぶって見える。野村監督が一生ワールドベースボールクラッシックの日本代表監督になれないように、小沢氏もまた政界きっての辣腕者でありながら、陽のあたる道を行くことなくそのキャリアを終えることになるかもしれない。実力がありながら表舞台にたてない、主役になれない大物役者のような彼ら。

陽の光の下でトップに上り詰め、ひたすらに明るく笑顔を振りまくのは、長嶋茂雄氏であり、原監督であり、小泉元首相なのだ。


しかも小沢氏は、ゼネコンからの政治献金の処理問題という、いかにも“自民党的で昭和的な手法”の不手際によって倒れようとしている。民主党の党首として日本の総理大臣の座まであと一歩と迫りつつあるこの時点においても、“彼がいかに昔ながらの自民党的な政治家であるか”を象徴するようなできごとだ。


これを運命というのか、なんというのか。

政治家にはそれぞれ“固有の運”がある。そういう感じさえする。どこかにそういう“意思”がある。単純な陰謀論ということではなく、時代の力が怨念をもってそういう指示をしている、とでもいう感じ。

それはもしかすると彼が若き日に政治的薫陶を受けた田中角栄氏の魂なのかもしれない。「そのやり方はもう終わりや」とでも言われているような。



民主党政権はあっても小沢政権はないだろう。


小沢一郎 66歳


時代が彼を切り捨てようとしている。