マジョリティの常識

1995年、沖縄で米国海兵隊員 3名が、12歳の小学生女児を車で拉致して集団強姦するという事件がありました。

ところが日米地位協定に阻まれてアメリカ兵の身柄が日本側に引き渡されず、沖縄中で反米、反基地感情が爆発しました。

日本の世論の猛反発もあって、アメリカ兵 3名はその後、那覇地方裁判所で裁判を受けることになりましたが、その際、米国から彼等の奥さんなど家族が来日して記者会見を行いました。

彼女らはその席で「陪審員制度もない野蛮な制度で裁かれるなんて、あまりに夫がかわいそう!」と涙ながらに訴えたのです。ちなみにアメリカ兵 3名も配偶者も黒人でした。


この時ちきりんには、「陪審員のいない裁判=野蛮な制度」という意味がよくわかりませんでした。しかしその後アメリカの裁判制度についていろいろと見知るうちに、その発言の意味が理解できました。

アメリカの裁判では、一般人から選ばれた陪審員が有罪か無罪かを決めます。陪審員は最初は無作為に選ばれますが、被告側も“自分側に不利”と思える陪審員について変更要請を出せるなど、その選び方にはテクニカルにいろんな工夫ができます。

「陪審員選び」は判決に大きな影響を与えるので、その選び方について専門的にアドバイスをする“陪審員コンサルタント”などという職業まであるようです。


また、陪審員は基本的にはその裁判所のあるエリアから選ばれるので、自分と異なる民族が圧倒的に多いエリアに住むと、裁判の時に不利になる可能性もあります。

ヨーロッパ系、アフリカ系、イスラム系、アジア系、ヒスパニック系などでは、同じアメリカ人でも価値観の違いもあれば、宗教の違いもあります。

経済的な格差が民族によってわかれている場合もあるし、時にはあからさまな民族対立もあります。誰だって自分と同じ価値観の人が陪審員に多い方が有利だと考えるでしょう。


特に被告と被害者の人種が違う場合、たとえば、被告が黒人で被害者が白人の場合、陪審員が白人ばかりであれば、被告にとって公正な裁きが行われるかどうか、不安になるのは理解できます。

つまり沖縄の事件では、夫が逮捕された妻から見ると「アフリカ系アメリカ人が全然いない日本の裁判で、私の夫が裁かれるのは、あまりに不公平である」もしくは「反米・反基地感情が非常に強い沖縄という地域で、米兵に対する裁判が行われるのは、米兵側に不利すぎる」と思えたのでしょう。


これらの発言は日米の裁判制度の違いからくるものなのですが、より広くとらえると、その示唆するところは非常に興味深いです。

そもそも移民が多く多民族が混在するアメリカは、全員が共有できる“常識”が存在しにくい国です。

宗教、価値観、経済状態、教育状態が大きく異なる人が混在すると、“誰が見ても正しい”という常識が少なくなります。ある人から見ると正しいことが、別の人から見るとそうではない。

そういう環境においては、“正しいこと”というのは、「その時代にその地域に住んでいる人の多くが正しいと感じること」と定義されるわけです。

だから裁判でも、住民から選ばれた陪審員が有罪か無罪かを決める制度が、最も公平な制度であると考えられます。


一方で、日本は単一民族・単一言語・単一価値観を“前提とした社会”です。完全にだとは言いませんが、アメリカの多様性のレベルからみると、マジョリティグループのサイズが非常に大きい国です。

であれば、裁判でもわざわざ一般の人の意見を入れて判断をする必要はなく、過去の事例や法律をよくわかっている専門家=裁判官が判断をすればいい、と多くの人が思うのも納得できます。


けれど最近は、日本も変化しています。年配の人と若い人の価値観は大きく変わってきているし、一億総中流は崩壊し、経済格差も大きくなっています。

様々な価値観をもつ人のグループが併存する国になると、「あなたちの常識だけで判断してほしくない」と言う人も増えてくるかもしれません。


この「価値観の多様化」はビジネスの世界でも顕著で、昔はみんな“お金さえあれば大きな車に乗りたい”と思っていたのに、今はそうでもありません。

お金があっても車に興味を持たない人、むしろコンパクトな車を欲しがる人も出てきています。一般的な「いい車」という概念はなくなり、それぞれの人が欲しがる車が「いい車」と定義されるのです。


常識や判断基準”にも、そういう多様化の流れがあり、“グループ別の常識”みたいなものが出てきています。

たとえば、「働かない男は一人前ではないのか」とか「子供が小さい間は、母親は家にいるべきか」から始まって、「堕胎や心中は殺人か」とか、「夫婦間での強姦罪が成り立つか」などなど。

日本でも、国民の大半が合意できる「唯一の正しい答え」が規定できない社会になりつつあります。


日本でも(陪審員制と同じではないですが)裁判員制度の導入が検討されています。

これからも日本でもますます価値感の多様化が進むだろうと考えると、ちきりんは“一般の人の多様な考え”を裁判に取り入れるのは非常によい試みだと思っています。

それは「唯一の正しい答えがある」という社会が、必ずしも生きやすい社会ではないだろうと思うからです。

「何が正しいのか、違う意見の人も含めてみんなで話し合ってみよう」という姿勢こそが、多様なバックグラウンド、異なる考え方をする人の共生を可能にするのではないでしょうか。


また明日