ネット上でいろんな人の主張を読んでいると、自分の考えはそこそこ一般的なものだと感じます。
これはテレビなど既存マスコミを見ている時に、自分の考えがとてもおかしな、少数派の意見に感じられるのとは対照的です。
たとえばテレビでは未だに“企業の剰余金を取り崩して非正規社員を正社員にしろ”などと言う人が登場しますが、なぜあんな摩訶不思議な意見を電波に乗せるのか、ちきりんには全く理解できません。
一方、ネットメディアでは誰もが賛成しているようにみえるのに、現実には、何年たっても変わらないことがたくさんあります。
たとえば、
「官僚組織と産業界の既得権益者が深く癒着して無駄な税金を浪費し続けており、そのために必要なところにお金がまわっていない」という状況認識。
たとえば
「新卒採用、年功序列、雇用規制などがどれほど成長への阻害要因となっているか」ということ。
たとえば
「現在の教育制度が、これからの日本に必要な人材を育成しているとはとても思えない」こと。
たとえば
「ネット選挙を解禁すべき」ということ、など。
ネット上では非常に多くの人がこうした問題意識を共有しているように思えます。
それなのに、なぜ何も変わらないのでしょう?
なぜ、現実はこんなにも強固なのでしょう?
ネット上で積極的に発言している人や声の大きい人なんて、世間では傍流だからでしょうか?
確かにそれもあるでしょう。けれどもうひとつ、一定数以上の人がそうだと思っていても現実が変わる気配を見せない理由は、「ボタンが見つからない」からだと、私は思っています。
たとえば明るくて寝られないので電気を消そうとしたとしましょう。
「眠るためには電気を消せばよい」ということはわかっています。けれど、その照明を消すボタン(スイッチ)の場所がわからないと消せません。
問題はわかっているんです。明るくて眠れないことです。
どうすればいいかもわかっています。あの天井の照明を消せばいいんです。
ところが、それを実現するために、押すべきボタンがどこにあるかわからない。だから状況が変えられないのです。
ちきりんも同じです。ブログや記事に「こうあるべき」「こうなるべき」という意見は書けても、「ここにソレを変えるボタンがあるんです!」と書くのはすごく難しい。
なぜなら、その部屋は自分の部屋ではないからです。
私はその分野の専門家でも、自分がその世界で働いたことがあるわけでもありません。
だから「何をまず変えれば変化の歯車が動き出すのか」。「現実的にどうすれば変わるのか」がわからないのです。
自分の部屋ならボタンの場所は最初からわかっています。けれど初めて泊まるホテルでは、電気のスイッチを探すこともよくあります。
他人の家に行った時も同じです。廊下のスイッチが見つからなくて、その部屋の居住者に聞いて初めて「ああ、こんなところに」となります。
自分の専門領域外でボタンを見つけるのは大変なのです。
けれどボタンはあるんです。だからこそ、電気はついているわけですから。
そして、その分野で働いている人にはボタンの場所はわかっています。でも彼らが動かない限り、外部者にはボタンの在り処はなかなか見えません。
多くの場合、内部者はボタンの位置を外部者に教えないどころか、それを隠そうとさえします。
なぜなら彼らこそ状況を変えたくない張本人だからです。
私達は「何が正しいのか、何がおかしいのか」だけではなく、「どうすればそれが実現できるのか」に焦点をあてて考え始めなければなりません。
ボタンを見つけ、それを押さないと、現実はなにも変わらないのです。