メディアの多く露出がある人を取材する場合は、「とにかく他のメディアと同じ内容の記事を書きたくない」という気持ちが強くなります。
たとえ、他のメディアが書いてる内容が、私が書こうとしてることよりおもしろいことであったとしても、同じこと書くのはヤです。
「ちきりんのインタビューは、他メディアとは全く視点が違う」と言ってもらえることこそが、私にとっての最高の褒め言葉であり、違いさえ際立っていれば、どっちがおもしろいとかいうのは(読者の好みにもよるので)どうでもいいんです。
みんなと同じこと書くなんてプライドが許さない。てか、あたしが書く意味ないじゃん。とも思います。私にとって大事なことは、「良いか悪いか」ではなく「同じか違うか」です。他者と同じでは(内容に関わらず)価値がない。なんとしても「違うくありたい!」と思います。
これ、いつからこー思い始めたんだろう? 日本の学校も親も多くの場合、子供に「周りと同じであること」を求めます。親の場合は、「周りと同じなんだけど、周りより巧くできる我が子」が期待の姿でしょ。
周囲の子供がみんな大学に行くのに、我が子が「そんなの意味ない。行かない」と言い出したら、普通の親は必死でそれを止めるはず。「とりあえず大学に行く」と言ってくれたら心底ほっとしますよね。たとえそれが“と・り・あ・え・ず”であったとしても。
ところが社会にでると、「周りと同じ人」は、常にレッドオーシャン(競争相手が多く熾烈な競争が起こってる市場)で生きることになります。特に「とりあえず皆と一緒に」みたいな判断をする人は、ほんとーに最悪な環境に置かれてしまう。
そうではなく、「他者とは全く違う!」人だけがブルーオーシャン(競争相手がおらず、高い付加価値=報酬を獲得できる)という場所に立てるのです。
だから小さい頃に学校で「みんなと同じ」であることを求められて育ってきた私たちは、どこかの段階でその方向性を 180度転換し、「他者とまったく違う自分」を目指すと決める必要があります。
そういったゲームのルールの変更に気が付かないと、コモディティ仲間との価格競争(労働者の場合は、給与が下がっていく一方の環境)から、いつまでたっても(どれだけ頑張っても)逃れられない。
さて、では今の段階で「他者と違う自分」を確立しており、ブルーオーシャンで悠々と生きられる立場を獲得している人たちは、いったい、どのタイミングでその方向転換を成し遂げたのでしょう?
なかには、ごく小さい頃から「周りの友達とは全く違っていた」という“ずっと変わり者呼ばわりされてきた”少年(&少女)もいるでしょう。
別のパターンとしては、大学時代くらいから「人と一緒はイヤ!」と思い始めた人もいるだろうし、中には社会人になってからようやく、という人もいるでしょう。
今でもその転換点に気づいておらず、労働市場においても「人と同じことを、自分だけいかに巧くやるか」に必死となり、レッドオーシャンの荒波に溺れそうになっている人もいるはず。
いろいろ考えてみると、私の場合はたぶん中学生の時の環境が大きいかなと思います。
まっ、いずれにせよ、「他者と同じであること」「他者と同じだけど、他者より巧くやる競争で勝ちたい」という道を選ぶことのヤバさには早めに気がついたほうがいい。
その道を選ぶと、どこででも手に入るモノやサービスが価格競争に陥るのと同様に、労働力としての人間も給与がどんどん下がるだけになってしまうから。
いかに他者と違うくなるか、それを競う時代なんです。
そんじゃーね