ちきりん的“大人”の条件

“子供な人”が苦手です。

既に”いい大人”といえる年齢に達しているのに、精神的な態度や成熟度という意味で子供っぽい人に会うと、とても疲れます。

そこで今日は、“大人である” というのは具体的にどういうことなのか。

独断と偏見による“大人の定義”を書いてみます。


(1) 不満を感情で表現するか、否か

誰しも不満なこと、気にくわないことはたくさんありますよね。

世の中では自分の思い通りになることより、ならないことの方が圧倒的に多いです。

「お母さんの、大きな愛の傘で守られている」という状況から一歩外に出れば、この世は矛盾と理不尽に満ちあふれています。

そういう時、自分の不満な気持ちをどう表すか。ここに大人と子供の違いが現れます。

子供は、不満を表現する方法として “感情で表現する” という方法しか持っていません。

典型的には、「泣く」「ふてくされる」「すねる」などです。

中学生くらいになると、「うぜーんだよ、ばばあ」などと悪態をついたり、物理的に暴れるなどして不満を表現する人もでてきます。


そして大人でも、自分の不満を攻撃的な言葉に転換し、やたらと他者にぶつけてくる人がいます。

「俺は不満である!」ということを周りの人に伝えなければ気が済まないのでしょう。

子供の頃、感情を垂れ流していたらママが問題を解決してくれた、そういう経験が忘れられないのかもしれません。


次のふたつのことに気がつくと、人はこういう態度をとらなくなります。

ひとつめは、「自分だけが不運で不幸で、不満を感じているわけではない。他の大人は、そんなことを感情的に垂れ流さない。だから見えないだけなのだ」ということ。

もうひとつが、「不満を感情的に表現することは、誰にとっても(もちろん自分にとっても)何一つメリットはない。それどころか大きな害がある」ということ。

この二つに気がつくと、人は不満を感情爆弾で表そうとは思わなくなります。

これが、大人への階段をひとつ上る瞬間です。


(2) 理解できないものがあると、理解しているか、否か

世の出来事の大半はとても複雑で、そんなに簡単に何かが「わかった!」りしないのもです。

もし「わかった!」と思うことがあったなら、それは結局のところ「実はわかっていないから」です。

わかっていないという事実を理解できないから「わかった!」と思うのです。

「あの人はいい人だ」とか「あいつは悪い奴だ」と言えば、わかった気になれるかもしれません。

しかし世の中の人は、「いい人」と「悪い人」に分かれたりはしません。

人を含めすべてのものには「いい面」と「悪い面」があり、「良いように見える見方」と「悪く見える見方」があります。

大人は、「いい・悪い」というような二元論的な区分が嘘であることを経験的、感覚的に理解しています。

だから 「俺は全く悪くない。悪いのはあいつだ!」というような、子供っぽい考えをもちません。


また、世の中の大半のことに「正しい答えはない」とわかっているかどうかも、大人と子供の大きな違いです。

子供が通う学校では、「物事には答えがある」と教えます。「こうやって答えを出すのですよ」と指導し、答えが上手に出せるかどうか、テストして評価までします。

子供は「答えがある世界」に住んでいるのです。


でも大人は違いますよね。

大人の住む世界には「正しい答」はありません。 大人の世界で答えがすぐに見つかるのは「どうでもいいこと」だけであり、世の中の多くの「大事なこと」には答えがないのです。


必要なのは、自分が何もわかっていないと知ることです。それが、より理解したいという動機となります。

「わかった」と思うことは思考の終着点、すなわち、思考停止を意味します。

そう思った瞬間に、 その人の認識世界のサイズ(境界線)が確定してしまうのです。


子供の世界が狭いのは、すぐわかった気になるからです。

子供ってよく言うでしょ。「ママ、僕わかったよ!」と。


そして大人になっても、 “むやみな自信” をもてる人がいます。

彼らは子ども同様、とても狭い世界に(多くの場合、自分で境界線を引いて狭い世界を作り出し、その中で)生きています。

(もちろん、自分が理解できない世界の絶望的な広さを認識した上で、「だからこそ自信を持つことが大事なのだ」と気持ちをコントロールしている、“覚悟の自信”がある人も一部います)

というわけで、大人への二つ目の階段を上る時、それは、「世の中は思ったより複雑で奥深く、自分は何もわかってない」と理解できた時でしょう。

そうすれば、むやみな正義感を振り回すことはなくなるはずです。


(3) 多様な他者を理解しているか、否か

天才棋士は何十手も先を読むそうですが、日常生活では、たった 2歩ほど先が読めれば大人として振る舞えるようになります。

2歩とは、「次に相手が打つ手」と「それに応じて自分が打つ手」の二つです。

相手が打つ手を想像するためには「相手がどんな考え方をする人か」と想像する必要があります。


子供は「他者も自分と同じである」という非現実的な前提を信じており、「誰でも自分と同じように感じるはず、考えるはず」と思っています。

相手の立場から見れば物事は違って見える、ということを子供は知らないのです。


実際には、人はそれぞれ感じ方も考え方も全然違います。

したがって相手の次の手を読むには、まず“自分とは違う人”を理解する必要があるのですが、これが子供には難しい。

この、自分とは異なる他者を想像できるか、という点が子供と大人の大きな違いです。


多様な他者を理解し、「自分がこういう言動をとれば、 相手はこう感じてこう反応する可能性もある」というところまで想像できるようになると、

その後、自分に起こる状況が想定できるようになり、最初の自分の言動を変えようというフィードバックが働き始めます。


つまり、2歩先を読むと最初の自分の行動が変わってくるのです。

自分の言動がどう自分に戻ってくるかを事前に理解すれば、人は、腹いせ的な行動、むやみに短絡的な言動をしなくなります。

しかもその際、「自分とは違う考え方、モノの見方をする人」という要素を組み入れて想像する必要があるので、行動前にじっくり考えるようになります。

これが客観的に言えば「思慮深くなる」ということであり、大人になるとはまさにそういうことなのです。

というわけで、大人への 3つ目の階段、それは「自分とは異なるものへの想像力」を手に入れ、それをフィードバックとして使いながら自分の言動を取捨選択できるようになる、という段階です。


★★★


まとめると、ちきりん的大人の条件とは、

(1) “思い通りにならない現実世界” にたいして、感情を垂れ流さず、
(2) 自らの未熟さと人間の力の限界を認識し、
(3) 人間の多様性についての洞察と想像力をもっていること であり、


反対にいえば子供とは
(1) 不満を感情として他人にぶつけて解消しようと考え、
(2) なんでもわかった気になれる”単純な世界観”に生きている、
(3) 自分と違うモノ、多様性を理解しない人である。 ということでしょうか。



そんじゃーね


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