分を知る

ファッション雑誌のコピーに「プチセレブな通勤ウエア」というのがあって笑えました。まじめに書いてるのか、ダジャレなのか。

そもそも通勤するのは“セレブ”じゃなくて“会社員”です。これじゃあそのうち、「プチセレブな消費者金融とのつきあい方」とか「プチセレブのロト6必勝法」が特集されるかもしれない。

とある高級アパレル会社の人が「うちのドレスを買って、クリーニングに出したら縮んだとクレームをつけてくるお客さんがいて困る」と言ってました。

彼曰く「うちのドレスは、洗濯して何度も着ることを前提として作ってない」とのこと。数回着たら次のドレスを買う人を想定して作られた服を、「これは高かったから・・」とイベントごとに着て、クリーニングに出して、太ったらサイズ直しにまで出してくる。高級ブランドの服ってそういう着方が前提とされていないからこそ実現できるデザインや素材を採用しているのに。


外反母趾も同じでしょう。足先がほそいハイヒールを長時間はいていると親指が曲がってきて、ひどくなると手術が必要になる。

本来「ハイヒールをはいて、毎日地下鉄を乗り継いで通勤する」や「ハイヒールを履いて一日中働いている」のは想定外です。もともとああいう靴は「不労所得」で食べている人のために作られていて、お出かけは馬車かハイヤー、舞踏会(遊びのイベント)の間だけハイヒールをはくと想定されている。

身も蓋もない言い方ですが、労働者層の人が貴族向けの靴を無理して一日中履いているから、足の指が曲がってしまう。

毛皮も同じですね。あれ着て満員の地下鉄にのる人を見ますけど、周りの人にも毛がついて迷惑だし、毛皮もすり切れます。そもそも「着て公共交通機関に乗る」ことが想定されてない素材なのです。


ちきりんは、日本の総中流意識とこの「局地的に頑張る」一点豪華主義的な消費スタイルは、奥底でつながっていると感じます。「母親がスーパーのレジパートで働いて、子供を中高一貫の進学校に通わせる」のも一点豪華主義のこだわりですが、社会クラスが明確な社会ではこういうことは起こらない。一部だけ背伸びしても「ひっくりかえせないものがある」と皆がわかっているからです。

総中流社会には“分”という概念がない。みんな同じ“分”だから、あるものが手に入るか手に入らないかは資金力だけの問題だと理解される。だから資金を一点に集中させたら自分にも手に入るはず、という話になり、それが「局地的に(たとえば“子供だけには”)集中して頑張る」という方法論につながっているのではないでしょうか。

でもそういう頑張りは、長期的にはどこかで無理がでるんじゃないかと思うのです。ハイヒール履いて一日働くなら大丈夫だけど、ずっとそんなことやってると足がゆがんでしまうのと同じように。


三浦展氏がベストセラー「下流社会」の中で、下流の特徴は経済力のなさではなく、むしろ上昇意欲のなさだと指摘されていました。確かにそうかもしれないと思います。

でも、それは必ずしも悪いことではないでしょう。「分を知る」というのは、気楽に楽しく生きる方法であり、自分を守る方法ともいえる。無理してブランドモノの鞄を買わなければ、その分、生活には余裕ができるのだから。


ちきりんは最近、自分の“分”を見極めて、そのあたりで生きていきたいとよく思います。以前は“分”を超えようとすること=「志を高く持ち、前向きに努力する」であり、それが成長につながったり、よりよい自分につながることかなと思っていたけど、最近は「ちょっと違うかも」と思います。

“分”を超えようと努力するのは一見いいことに見えるけど、結局は長い間にストレスが溜まる結果にはならないか。無理して背伸びを続けるのは、毛皮を着て地下鉄に乗るような滑稽な話なのではあるまいか、と感じるのです。

自分の分を知り、そのあたりの範囲で生きることは、自然で無理がかからない。それを見極めてその範囲で人生を楽しもうとすることを「下流思考」といわれるなら、それも甘んじて受け入れよう、と。そんなふうに思います。


ではでは