今朝は起きたら窓の外が一面の雪で驚きました。
さて、今日はちきりんの中学校時代について書いておきます。
1年の時は 3組、2年の時が 2組で、3年生が 2組です。各学年 3組だけの中学校だった。
市の中心にある駅前の中学校なんだけど、ちょうど住宅地やスーパーが校外に移転、ドーナツ現象で中心部の人口がどんどん減っているタイミングだった。
そしてその頃の地方の公立中学と言えば・・・いわゆる「荒れた中学校」だったんだよね。
これは当時においては全国的な傾向であると同時に、私が行ってた中学はいわゆる「頬に傷」系の人が多いエリアにあって、同級生の中にも「父親が・・」という子がたくさんいた。
そういう家に生まれた彼らは先生なんて“へ”とも思ってない。
先生が何かを注意すると、立ち上がって(先生の)胸ぐらをつかみ
「なんやぁせんせ、ようじか? わいにもんくつけるやなんてええどきょうしとるな。おやじにゆうたろか。はぁ?」ってな感じです。
まじで怖いよ。
特に私の同級生には「大物の子供」が集中しており、先生も手が付けられなかった。
縄張り争いで授業中にいきなり窓ガラスが石で(外から)割られたりするので=「他校からの襲撃」があったりするので、窓側の席はかなり怖かった。
クラスのあちこちに違うタイプの万引き団が形成されてて、中学生なのに同級生の女子のひとりは梅田のキャバレーで働いてて補導されてた。
ある子は家(の商売)がラブホテルで、その一室を子供部屋として与えられてて、ちきりんら友達もそこに呼んでもらって遊んでた。
・・・「でけぇフロ!」とか、純真な男の子が驚いてましたね。
妊娠したといって肩を落とす同級生は、「今、ママのお腹にも○○(=お腹の子の父親の名前)の子供がいる。どっちかが堕ろさないと」などと困った顔をし、
友人の私たち女子は「そ・うだね」的によくわからない相づちを打っていた。
同じ中学校の卒業生でもある教育実習の先生は、1ヶ月でいきなり消えてしまい、後から聞いたら「お父さんが狙撃されて死んだため」だったし、(しかも現場はあたしの通学路!!)
ある日、職員室が凍り付くような空気に包まれていて「なになに?」と思った日は、同級生の一人が体育館の裏でシンナー中毒により死亡しているのが見つかった日だった。
★★★
2年生になる時、学校側は抜本的な対応をした。
女性の先生はすべて他の学校に転出させられた。
かわりにやってきた先生は「すべて」体育の先生だった。体育の先生が、社会も理科も算数も担当する。まずは先生の自衛ってこと。
次に、校舎と校庭を挟んだ反対側にプレハブの校舎が造られ、ちきりんなど 2年生はそのプレハブが教室として割り当てられた。
1年生や 3年生が入る普通の校舎とは校庭を挟んでいるから、かなりの距離がある。
“隔離”ってやつですね。
2年生のクラスが荒れていても他の学年に影響が少ないように。
他校が襲撃してきても、他の学年の子に被害がでないように。
警官が突入してきても、他の学年の子達を動揺させないために。
授業は行われなかった。
あたしはたいてい友達とトランプをやっていた。朝から夕方まで延々と「ど貧民」(大貧民?)というのをやっていた。
時々、万引きというか強盗&恐喝によって近隣の駄菓子屋から奪われたのであろう御菓子が大量に教室に配られた。皆で適当にわけあって食べた。
先生はチャイムとチャイムの間=授業時間中は、教室の前の方にいる。
時間をもてあました生徒が、「ミイラにしたるわ」といってトイレットペーパーを先生に巻き付け、ぐるぐる巻きにしてしまう。
先生は、チャイムがなるのをまって、足だけはずしてそのまま教室を後にする。
教育熱心なまともな親御さんは、自分の子供を 2年生から私立に途中受験で転校させたりもしていた。
★★★
ちきりんの通信簿。
一年の時の成績。年間通して“5”なのは、英語、国語、数学、社会、理科。
二年生の時は、同、国語、数学、体育、家庭科
三年の時は、社会、数学、理科
・・・成績がどんどん下がってる。
二年の時、「体育」が年間通して“5”なのは笑える。体育の授業なんて行われていた記憶はない。
私はクラブ活動で軟式テニスをやっていて、中学生の大会で、150ペア中、最高 2位(他の大会でも 3位、4位)になったりしてた。
だから“体育= 5 ”だったんだと思う。
適当もいいところ。
運動神経の悪いあたし、体育が年間通して 5なのは小学校や高校を併せて後にも先にもこの一年だけ。
一年時の所見:一年間よくやった。更に風格のある人間をめざして頑張ろう。落ち着きも必要。
二年生の時の所見:リーダーシップを更に磨いてください。言葉遣いにも注意されたし。
三年生の時の所見:なし(先生の手抜き)
言葉遣いが悪く、落ち着きが無く、リーダーシップと風格のある子供だったらしい。
今とたぶん同じだ。あたしはなんの成長もしてない。
★★★
当時は中学校の成績(内申書)だけで進学する高校が決定される方式だったから、公立高校でいいなら受験勉強をする必要がなかった。
だから三年生の時はどの教科書もほとんど開いてない。
家で、ではなく、学校でも、ですよ。どの教科書もほぼ新品のまま、3年生の一年間は終わった。
卒業式の前日、ある先生がちきりんを含め、ある公立高校に入学予定の 10人を集めて言った。
「あなたたちは高校へいったら、まず間違いなく落ちこぼれるだろう。授業もぜんぜん理解できないだろう。
でも、気にするな。それはあなた達の責任ではない。あなた達は何も習っていないんだから、わからなくて当然だ。
だから高校へいったら、最初からやりなおしなさい」と。
夕方の、西日の陽がアチコチ凹んだプレハブ教室の床に長く入り込み、先生の横顔を照らしていた。
高校に入学した翌日、実力テストが行われた。
そこは公立とはいえ県下でもトップクラスの進学校。
様々な中学校から集まった生徒達の学力には大きな格差がある。
だからすべての学生の学力を最初に試験で判定する。
そのテストを見て、あたしはあの西日の教室を思い出した。
なるほど、そういうことだったのか、と。
これがわからないのは、私のせいじゃないと(先生は)言ってくれていたのね。
算数の試験には、“数字の右斜め上に、小さな数字が”書いてあった。
「なんでこんな小さい字で書くんだろ?」と思ってた。
乗数なんて知らなかった。
★★★
この中学校に通えてよかった。
学校であるにもかかわらず「勉強」が機能していない場所だったから、「それ以外の何か」で自分の居場所を確保する必要がある 3年間だった。
高校以降の人生では決して混じり合うことのない多様な人と交差する機会を与えてくれ、その後の人生に有用な、さまざまなことを学べた。
あたしは小学校の時、本ばかり読んる子供だった。
現実より、本の中の世界の方が圧倒的におもしろかったから。
小 5で「華麗なる一族」を読んでいた私には、その感想を話し合う友達さえ周りにいなかった。
休憩時間ごとに校庭に飛び出していく同級生がまったく理解できない。
なんでドッジボールがそんなに楽しいのか。
でも中学校に入ったら、世の中はとても興味深く思えた。
初めて、本より現実の方がおもしろそうだと気がついた。
それに早めに気がつくことができてすごくラッキーだった。
本の中に棲むより、現実社会を楽しむ方が余程エキサイティングだ。
今の言葉で言えば「リア充」に戻れたというわけ。
ずっとあとから、大事に折りたたまれたノートの切れ端が見つかった。
それはトランプの大貧民の勝敗をすべて記録した表だった。
私の勝敗は“1300勝 2400敗”くらい。これが中学校 3年間の、私の成績だ。
トランプとテニスしかした記憶がない。
隔離されたプレハブの教室で中学生活は終わった。
あんなに多様性にとんだ世界に、これ以降所属することは一度もなかった。
だからやたらと海外に出始めたのかも。
「もっといろんな人がいるのに」
私が高校以降ずっと感じている“選ばれた人達だけで構成される集団の嘘くささ”
その感覚のルーツはこの時代にある。
人生において大きな価値のある 3年間だった。