「毎日新聞の英語版オンラインウエブサイトに、英語で、ほとんどポルノ小説のような記事が長期間掲載されていて、海外の日本人等多くの人から警告やクレームがあったにもかかわらず毎日新聞が事態を放置。
結局、毎日の HP に広告を出していた企業が広告を引き上げる、という状況になって初めて毎日新聞も事態の深刻さを理解し収拾に乗り出した」という事件。
記事を書いていたのは「英語と日本語はできるが、それ以外の能力は(社会性も判断力も含め)何もない」というよくいるタイプの外人さんのようで、毎日側にはそういう人を管理する意思も能力もなかったんでしょう。
それにしてもこの事件で一番不思議に思えたのは、「毎日新聞がわざわざコストかけてネットで英語記事を書く必要って何?」という点。
“日本語かつ紙媒体”という本丸市場の方でさえ「毎日新聞不要論」が根強いのに、なんで毎日が英語で記事書く必要があったんだろうね。かなり不思議。
★★★
新聞社が今後やっていけなくなるであろう理由をまとめておくと、
<市場の縮小>
基本的なトレンドとして、新聞を読まない人が増えてる。ニュースはパソコンでも携帯でも見られるし、可処分所得も減ってる。年間 3 〜 4 万円かけて紙の新聞を購読する人が急減するのは当然。
また、昔は「新聞も読まないような奴は使えない」と言われた時代もあったのに、今や大前研一氏が看破するように「今時、新聞を読んでるような奴は使えない」時代。
新聞を読んでいるのは、「ネットを使いこなせない高齢者」+「惰性で読んでる人達」だと思われ始めている。
読む人が減ってるだけじゃなく、将来の社会のオピニオンリーダーであったり、高い購買力を持つ層に見放されてるのがつらい。
<マス広告価値の低下>
先日「“マス”という呪縛」で書いたとおりです。
今や「馬鹿でかいカバレッジ」より「より特定のセグメントにピンポイントでリーチする」ことの方が意味=価値がある時代なのに、新聞はもテレビもずっと「マス」にこだわってる。
今やマスに向けて一般的なことを訴えかけても商品やサービスが売れなくなった企業側は、
高校生向けなら携帯で広告を、学生や若者向けならネットへ、高級品の広告は市販されていない富裕層向けの特別な雑誌に広告を打つ、というように、
自分たちの商売に必要なメディアをそれぞれに開拓し始めた。
この多様化時代に“マス”をターゲットなんて、使えなさすぎる。
それに、そもそも日本市場が縮小しているのだから広告の総額も増えない。
広告費の総額が変わらない中、新広告ツール(メディア)がどんどん登場してるのだから、既存のマスメディアである新聞や地上波への割り当て分は当然に少なくなる。
次は<販売システムの崩壊> もしくは、戸別訪問押し売りシステムの限界。
新聞購読の勧誘なんて、受けたことあります?
若い人でこんなの受ける人いません。だって家にいないもん。
昔はどの家も主婦と親世代が家にいました。だから個別に家に行って営業できたんです。
今や家にいるのは高齢者だけ。だから一人暮らしの老人に 10年後までの購読契約をさせるというような詐欺的な営業が行われる。
戸別訪問で契約を取る歩合営業マンは、「契約のハンコを一ヶ月に何個とってこい」みたいな指示を受けてる。だから実際の契約が始まるのが 8年後からの 2年契約でもOK。
一人暮らしの高齢者でちょっとした粗品と引き替えに 10年後までの契約をしている人(させられている人)はたくさんいると思います。
こんな方法ではもう購読者数は増えないですよね。売るシステムが崩壊したら、売れないっしょ、というお話。
<編集特権の消滅>も大きい。
新聞の権力性がどこにあるかといえば、それは「どの記事を紙面に載せるか」という判断権を持っている点にあるわけです。
何を載せ何を載せないか、何を一面にして何を後ろに持ってくるか、それぞれの記事をどの大きさで報じるか。
これらを通して新聞はそれぞれの事件なり出来事の「価値判断」をするという特権を持っていた。
「彼らが大事だと思ったことが一面のトップで大々的に取り上げられ」、たとえちきりんが「これは大事!」と思っても、新聞社がそう思わなければその記事は葬り去られる。これは絶大な権力です。
もちろん戦争の時も、新聞が「日本は勝っている!」と言っていても信じてない人はたくさんいたわけで、大それた嘘が通用するわけではありませんが、小さな事件なら「なかったことにする」ことはできるくらいの権力を持っていた。
ところがネットの出現でこの特権が失われます。
第一にネットには「紙面の量の制約」がありません。どの記事を載せるか載せないか、という判断は不要なんです。全部掲載しても誌面が足りなくなったりはしない。
次に一面という概念がない。確かにウエブにもトップページや特集ページはあります。しかし読む人の大半は「検索」したり好みのカテゴリーから順に読み始める。
何を大事と思うかは、新聞社ではなく読者が決めることになった。
「編集権」が意味をなくした瞬間でした。「デスク」と呼ばれる権力者は、社会の権力者から「新聞社内だけでの権力者」に格下げされたのです。
このことと毎日新聞の事件がどう関連するか?
もし紙面が限られていたら、どんな記事でも他の記事と比べられ、「どっちを(どこにどの大きさで)載せるか」という判断が行われるわけです。紙の新聞ってのは毎日そういう判断をしています。
でもネットには“紙面”のような量の制約がありません。コンテンツは寧ろ多ければ多い方がいい。広告を載せるスペースが増えるし、アクセス数を少しでも稼いでくれるならそれで価値があるからです。
紙面という量の制約がない → コンテンツは多ければ多いほど(アクセス数につながるので)好ましい → 記事がさほど厳しくチェックされることもなく掲載される、ということ。
反対に言うと、今までだってデスクは「記事の品質のチェック」なんてやってなかったのです。ではなくて、「限られた紙面に載せる記事を選ぶため」に各記事が読まれ「質が高い、低い」というのは、その「記事を選んだ理由」として後付されていただけ、ということ。
だから記事をそこまで厳選する必要がないネットにおいては、記事の品質チェックがかなり甘めになる、ということなのでしょう。
★★★
もうひとつ最後に。たぶん一番根本的な理由。
それは、<記者の能力の相対的かつ圧倒的な低下>です。
昔が一流だったとは言わないが、少なくとも今よりはマシだったんじゃないかと思います。
今回の毎日の事件が象徴していると思うんだけど、この事件がなんで(様々なクレームがあったにもかかわらず)放置されていたかというと、日本の新聞社のデスクなり管理職で「英文記事をすらすら読めちゃう」という人がほとんどいなかったからでは?
だから対応に時間がかかった、という気がします。
毎日新聞は最近は紙面でもお詫び特集を繰り広げてますが、“識者の話”とかででてくるのも全部日本人。英語の記事で問題起こしたんだから、実際の英文の記事を見ていた海外の識者のコメントとってくれば?と思うけど、海外の識者なんて話したこともないかも?
読者と記者のレベルというのが、同等と言うより、かなりの部分で逆転してしまっている。読者の方が英語のおかしな記事を先に見つけるようになってしまっているわけです。
英語に限りません。新聞記事よりおもしろい日本語ブログはたくさん存在する。
新聞の論説委員より深い洞察、新聞記事よりも適切なデータ分析、記者の付け焼き刃のようなものとはレベルの違う専門的な知識を、惜しげもなく無料で提供するネット上のサイトは多数にわたる。
読者はそれらを日々見て成長している。英語が読める人ならその数はあまりに圧倒的だが、日本語サイトだけでさえ今や相当な質と量だよね。
こうなると、“プロの記者”の価値ってなにさ? ってみんな思い始める。
★★★
まとめておきましょう。
新聞が後世に残れない理由。
1.市場の縮小
2.マス広告価値の低下
3.販売システムの崩壊
4.編集特権の消滅(価値判断主導権の読み手への移転)
5.記者の能力の相対的かつ圧倒的な低下
そしてもうひとつ。このような「未来のなさ」に気がつかない「先見性のない学生」が未だに新聞社に入りたい入りたいと毎年押し寄せていること。
「時代の先見性のなさが原因で潰れていこうとしている業界に、毎年毎年新たに、先見性に欠ける学生が続々と入社する。」
大変なこった。