上り坂・下り坂

永田 寿康(ながたひさやす)氏


UP and DOWN


1969年 9月生まれ。愛知県名古屋市出身
1988年 慶應義塾志木高等学校卒業
1993年 東京大学工学部物理工学科卒業
同年  大蔵省入省


1995年 カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)MBA留学
1999年 大蔵省退職、古川衆院議員の公設秘書に転身


2000年 6月 千葉2区から衆議院議員として初出馬し当選(30歳)
2003年 11月 2期目当選

実父が九州の医療法人財団会長を務める国内有数の資産家であることから、以降潤沢な資金援助をうける。実父は永田の選挙区である千葉県八千代市に学校や病院、看護サービス施設を建設。月1度の新聞の折り込み広告等の選挙支援を行う。2000年の総選挙で一気に大所帯となった民主党の若手議員の中で、屈指の資金力を誇る。(以上wikipediaより)*1


2004年 航空会社の元客室乗務員と結婚。
     挙式は千葉マリンスタジアムを貸し切って行う。
2005年 長女誕生


2005年 9月 3期目の当選 36歳の誕生月 



★★★ 5ヶ月経過 ★★★



2006年2月 衆院予算委員会でメール問題で質問を行う。
・メールが偽であることが発覚
・大混乱の数日間、親族が経営する病院に入院
2006年4月 民主党から処分(党員資格の停止、半年)、議員辞職


2007年始め 千葉県八千代市の自宅から転居

別居

離婚



父親の地元・福岡で政界復帰を試みるが、民主党関係者からは拒絶的反応。支持が得られず断念。
親族が経営する公認会計士事務所に入社。ごく短期間で退社。


2008年7月 創価学会への名誉毀損罪にて千葉簡易裁判所から罰金30万円の略式命令(2005年8月に国政報告会で創価学会へ虚偽の発言で、同会の名誉を傷つけたとして)


2008年11月中旬 福岡県。躁うつ病で治療中、徘徊中を警察に保護される。手首に傷があり、自殺未遂が発覚。


2009年1月3日 北九州市のマンションから飛び降り自殺。39歳
       服装はスウェットにダウンジャケット。
       現場の部屋には焼酎の紙パックと走り書きの遺書

★★★



ここからは推測にすぎませんが。
偽メールをねつ造して永田議員(当時)に話をもちかけ、そのメールを高値で売りつけた人がいます。“政治ゴロ”とでもいうべき人でしょう。

もし永田氏に“豊富な資金力”がなければ、そんな詐欺師に狙われることもなかったかもしれない。また、ふっかけられた額を用意してそのメールを購入することもできなかったかもしれない。

盤石の経済基盤を持つ“若手のホープ”でなければ、“一発、功があれば、30代で民主党の幹部になれるかも”と夢想したり、危ない話への嗅覚を鈍らせる焦りすぎた野心に足を取られることもなかったかもしれない。

などと言っても仕方ないけれど。


あの時このメールで一儲けした人も、今どこかで、このニュースを見ているのでしょうか。その人はただ、世間知らずな大金持ちのお坊ちゃん相手にちょっとした“振り込み詐欺”を仕掛けただけ、なのでしょうか。

ワープロ打ちの紙一枚で一番の高値を払ってくれる僕ちゃんを見つけたんだから、ターゲットにするのは当然だろうと、そう言うのでしょうか。「いやオレだってあんな額が手に入るとは思ってなかったんだ。それにまさか党幹部のチェックもなしに国会にでるとも思ってなかったし。」と言うのかも?



もうひとつ。
永田氏はメールが偽だとばれ大騒ぎになった時、一時的に雲隠れしました。そこからでてきた時、「辞職するかどうか父親と電話で相談していた。」と蒼白な顔で語りました。

世間は“なんと甘えたおぼっちゃん”と思いました。民主党の党首から幹部まで総辞職かもしれない、二大政党制が10年遅れるかも、というような事態を引き起こしておきながら、本人が辞めるかどうかすぐに自分で決められないなんて・・と。30歳にもなって親に相談するために籠もっていたなんて、と。


確かに世間知らずのお坊ちゃんだったかもしれません。でも、今日このエントリを書きながら思いました。彼に国会議員になり“末は大臣”と、是非とも成功して欲しいと望んだのは、彼ではなく、地元で名声もお金もすべてを手に入れてしまっていたご家族だったのかもしれない、と。もしくは、そうではなくても、彼の方がずっとそういう期待を背負って自身の道を走っていたのかもしれないと、思いました。民主党が政権をとった時には最年少“大臣”として地元に帰る自分を夢見ながら。




永田さんのご冥福をお祈りします。