反“貧困問題”の思想まとめ

貧困問題について議論する際、よくでてくる反論をまとめてみた。
反“貧困”ではなく、反“貧困論議”の考え方です。=「貧困なんて、寄ってたかって真剣に議論するほどの問題でもないでしょ」的意見の方のその理由集、みたいなもんです。



(1)自己責任論
貧困に陥ったのは社会の責任ではなく本人の責任である、という説。本人の勤務態度の悪さや努力不足、貯金をしてこなかったことなどを責める場合が多い。従来は反貧困問題の理論として最もオーソドックスな意見であったが、最近は「まだそんなことを言っているのか?」と勉強不足や認識不足を指摘する声が強くなり、急速に姿を消しつつある。


(2)絶対的貧困の不在説
日本における貧困層は、アフリカ難民などの貧困さと比べれば全く貧しくなく、日本には本当の意味での貧困問題は存在しない、とする説。すなわち「生存のための必要最小限カロリーの摂取に困るレベル」の貧困者の数は日本では社会問題としてとりあげるほどの数ではない、という主張。

貧困ラインを絶対値で、しかもかなり低いレベルで認識しており、「必要な医療が受けられない、子供が高校に通えないようなレベルも日本では貧困と捉えるべき」という意見を否定する。


(3)南の島へ行け論
貧困の人達は、居住費をはじめ生活費の高い東京などの大都市にいるから貧困なのである。もっと生活費の安いところに行けば貧困ではなくなるのだから、まずはそういうところにいくことによって貧困から脱するべきである、という意見。

たとえば南の島へ行けばテントのような家でも凍え死ぬこともなく、衣服もほとんど不要。テントの周りに芋や菜葉を植えるだけで食べていけるはずである、などと主張される。

昔、米国の中西部の都市がホームレスにロサンゼルス行の片道飛行機切符を支給し問題になったことがあった。その際の中西部都市側が「ここにいてはホームレスは凍死する。人道的措置として切符を配った」と説明したが、これもこの説にのっとった政策と考えられる。(ロサンゼルスは怒っていた。)


(4)現物支給で解決論
日本では食べ物の4割が廃棄され、各家には要らない洋服や生活雑貨が溢れている。という現状から、貧困問題にあえぐ人は、そういった「残り物」を得られればそれだけで貧困から脱することができるはずである。問題はそういう「余った食物」や「廃棄される生活雑貨」が貧困者に回される仕組みがないことにある、という考え。

また家に関しても生活保護費を払うよりは、地方の土地の安いところに震災時の仮住居的なプレハブを作って、そこに入ってもらうような現物支給方式で行うべきと主張する。


(5)仕方ないだろ論
貧困のない社会など歴史的にも、また他国でも存在したことはなく、どんなに社会制度を整えても結果として必ず存在するものであるのだから仕方の無いことであり、ことさらに問題視する必要はない、という考え。たとえば共産主義国にも貧困は当然のように存在していた(いる)という例がよく取り上げられる。

また「先端の企業や個人が国際競争力に欠けることのほうがよほど問題である」という考えと共に語られることが多く、社会課題の優先順位を考えた時に、貧困問題をそれ以外の問題より相対的に劣後させてとらえる思考でもある。


(6)税金支払いによる貢献済み論
日本にも貧困が存在しており解決しないといけない問題であるとしても、それは国の役目であり、自分達一般の人達は納税行為によってこれらに貢献しているので、それ以外に貧困問題解決のための特別な行為をする必要(求められる必要)はない、という論理。


(7)進化論への挑戦は無謀だ論
弱者が淘汰され強者だけが生き残るのは、進化論の原則に沿った流れであり、生物界を支配する大きな掟である。したがって、現代社会のルールによって生き残れない人達が現在の社会から淘汰されるのは一種の自然の摂理である、という説。進化論に挑戦するのはいいが、所詮は無駄な努力に終わる可能性が高く、結局は弱者を救えるわけではない、と考える人達の論理。



ちきりんが聞いたことある「貧困議論に異議あり!」な人達の理屈は以上です。また別のを聞き次第、追記したいと思います。


ではね。