格差には、「不平等だ!」「ずるい!」「変だ!」とか、「なんとしても解消されるべきだ!」と、大きな怒りや不平等感を呼ぶ格差と、あんまり気にされてない格差があるよね。
というか、格差が一定レベルを超えて大きくなると、人ってあんまり格差に怒らなくなるような気がする。
派遣社員の人って、正社員の人にたいして「同じ仕事なのに給与や待遇が違うのは不平等だ!」と怒るけど、親から何十億ももらってる麻生さんにも鳩山さんにもあんまり怒ってないでしょ。
身近なところで考えてみても、たとえば、兄弟で弟のお小遣いが2千円で自分の小遣いが千円だと、「すごい不公平!」「ずるい!!」と思うでしょ。
近所に住む同級生の○○君のお小遣いが 5千円だと聞いて、それは彼の家が金持ちだからだと聞くと、「世の中の矛盾」とか「社会正義」について考えたくなるよね。
だけど、長嶋茂雄さんとか松下幸之助さんの子供の小遣いが20万だとか50万円だとか聞いても、同じように頭にきます?たいして頭にこなくないですか?
(注:上記の2名の固有名詞は単なる例です。このクラスのお金持ちの話をしている、ということを言いたかっただけです。)
同じように、自分と同じような仕事をしている人が、本社勤務(もしくは親会社勤務)だという理由で年収が200万自分より高い、と知ると、かなりムッとするはず。
でも、その会社の創業者の孫の収入が配当だけで年に 6億円だ、と聞いても、あんまりピンとこなくないですか?
その創業者の孫が、たまたま自分と同じ大学の同期や後輩だったりして、その人が別に個人としては威張っている人でも傲慢でもなければ、ごく普通に友人になれるだろうし、一緒に飲みにいけば時には自分がおごったりすることがあっても不思議ではないよね。
でも理屈で考えたら反対だよね。どっちかというと、親会社や本社に入っている人は自分で努力していい大学やいい会社に入っているのだからまだ許せるけど、単に親から資産を相続した人のほうは許せない!と考える方が、理屈はあってる。
でも感覚的、感情的には、逆な気がするわけ。
こういうのって、お金だけでもないんです。
身の回りにかっこよくてモテモテの友人がいれば「いいあな、自分もあいつみたいにかっこよく生まれていれば・・」と感じることはあるかも。
でも超美形なタレントや俳優を見る時には、自分と比べてどーのこーのという感想さえ持ちにくい。
つまり、人が嫉妬したりうらやましがったり怒ったりする「格差」というのは、一定のところで最大化し、その後は格差が拡大すればするほど「不公平感」「怒り」「嫉み」の量が減っていくんじゃないかな、と思った。
図で書くとこんな感じ。
一億総中流時代には、原点にいる人からみて、少々いい人でも“赤丸”のところにいるように見えたので怒りは少なかった。
それが、今は“赤の二重丸”のあたりにいる人がいっぱい見えるようになってきた。だから、その格差に対する怒りが爆発してる。
が、そのうち格差がもっと進んで青い丸のあたりの人ばっかりになれば、また怒り、嫉み、不平等感などの“縦方向の差”は小さくなっていく。ってか、意識されなくなる。
アメリカなんて、金持ちはめっちゃ金持ちだし貧しい人はめっちゃ貧しいけど、下の人ほど“ここは自由と平等の国だ!”とか言うでしょ。
おいおい「格差の国やろ」って感じだけど、彼らはそう感じてないっぽい。青い丸のところって原点と“縦”の距離は小さいから。富の差(横の距離)があまりに遠すぎて、不平等感とかをむしろ感じにくくなってる。
欧州も労働デモはよくやってるけど、ダイアナ妃の実家も“スペンサー伯爵家”でしょ。お屋敷もすごいよね。でもそういう層にたいして怒ってる人ってあんまり見ない。
発展途上国の貧しい人も同じ。ああいう国って格差も大きいし、彼らと旅行者であるちきりんなど日本人との格差もすさまじい。
でも、そういう貧しい人も(ちきりんなど)先進国からの旅行者にたいして、羨望、嫉妬や不公平感をほとんど感じてないように見える。で、全然くったくなく、下手すると何かをご馳走してくれたりもする。
いわゆる典型的な「こんな貧しいのに卑屈にならずその瞳がキラキラして」っていう事例ですが、これも向こうは原点、こちらが青丸あたりにいる関係だからじゃないかな。よくわかんないんだと思うのですよね。あまりに遠すぎて。
たぶん格差が一定以上になると“非現実感”と同時に“諦念という感覚もでてきて、あんまり“不公平感”とか“嫉妬・羨望”を感じなくなる傾向にあるんじゃないかと思う。
なので、昨今の日本で格差問題が大きくとりあげられるのは、格差がまだ中途半端というか小さいからであって、このまま格差拡大と固定が進んでいけば、そのうち格差問題は、社会問題ではなるかもしれない。
まじ?
そんじゃーね。