人生の意義を支える、ふたつの構造

前に赤木智弘さんと対談した時、「今の日本社会では、仕事の有無が経済力だけでなく社会ステイタスや生き甲斐など他の要素にリンクしている」と言われていたのを思い出して、絵にしてみた。

土台に仕事があり、その仕事のおかげで経済力が得られる。反対にいえば、仕事を失うと経済力を失う。次に、仕事と経済力があるから「社会的に一人前」と認知され、社会的地位が認められて初めて結婚できる。すると最後に、自分には生きる意義がある、人生は楽しいと思える。つまり、仕事をベースとし、人生の有意義感を頂点とするピラミッド構造が存在する。


もし本当にこういう構造だとすれば、仕事が得られないと他のなにも手に入らなくなり、「人生が詰んでいる」「生きている意味がない」みたいになる。正社員の解雇を簡単には許さないという(最高裁様がお示しの)社会規範も「仕事はすべての土台なのだから、そんな簡単に奪ってはならない」ってことかもしれない。
(仕事が得られなかった時代の女性は、一番下が“結婚”だったとも言える。)

ふむ。



別の形として考えられるのが下記B図のような構造。この構造だと、仕事は他の要素の土台ではなく、個人の人生意義認識を支える柱のひとつとして機能している。

たとえば失業しても、隣の経済力=セーフティネット、公的福祉により最低限の経済力が確保されれば、仕事と経済力は分離できる。また、たとえ失業していても仕事以外の個人活動によって社会的に認知されるなら、社会地位の柱も分離される。

また、一時的に失業していても「当面、私が働くからいいよ」という相手がいれば結婚できるし、出産を支える社会インフラが整い、失業者でも子供がもてるとなれば、家族を維持する力も仕事の有無に左右されない。これがB図です。

これだと人生の幸せ、人生の意義は複数の要素に支えられているので、どれかが一時的に欠けてもすぐに屋根(個人の生きる意義)が落っこちてきたりはしない。もちろん柱が二本、三本と崩れてくれば屋根も揺らぐけど、少なくともA図のように「仕事から総てが始まる」という構造とは違う。

実際、定年したとたんに生きる意味がわからなくなったり、配偶者に先立たれて生きる屍になったり、仕事に失敗して個人破産し、すべての経済力を失った時点で人生には意味がないと絶望する、という「積み上げ型」より、どれかが欠けても他の要素で生きる意味を支えられるなら、そのほうがナイスに思える。


で、B図になるにはどうすればいいんだろーって考えてみたのだけど、B図のような「複数の柱」を作りたければ、まずは意識して「仕事」以外の柱を造っていく、という努力が必要だよねと思った。

たとえば人生がA図のピラミッド型だと思い込んでいると、「まずは仕事を探そう」と考えるよね。遊びや人付き合いなどを犠牲にしてでも、仕事を得るために努力しなくちゃ、と思うよね。それがないと何も始まらないと思ってるわけだから。

でももしB図を頭に描いていたら、仕事が見つからないなら、求職活動もいいけど別の話として彼女を捜すのもいいんじゃないか、という発想になるかもしれない。もしくは全く社会地位認識を得られない仕事についている時に「社会地位認識が得られる仕事を探そう」ではなく、「仕事以外で社会地位認識を得られる方法はないのか?」と考えるかもしれない。

それって案外よくない?


自分の時間やエネルギーを仕事探しに集中させて、そこで結果が得られないと「ぐぁぁぁぁーん!オレの人生、意味なーし!」という結論になってしまう“一発勝負”のA図より、4つのうち2つくらいあれば「まあ、そこそこ楽しいじゃん」と思えるB図の方がよい気がする。

ちきりんが会社を辞める時、「そんな人生きっと退屈すぎるよ」とか「完全な無職じゃなくて形だけでも会社を作っておいたら?」と言ってくれる人もいた。そういう人ってA図を頭に描いていると思う。ちきりんはB図で、仕事の柱が消えたらその部分に「趣味の柱」でも新しく建てればいーじゃん、くらいに思ってるから仕事がなくてもまあいいか、って感じだ。


ちなみにA図かB図かというのは客観的に決まっているわけではなく、自分が「どっちの構造だと思っているか」が肝。どっちの図だと思っているかで、「生きる意味を感じるためには何が必要か」という認識が変わってくる。すると当然「何に時間を使うべきと考えるか」も変わってくる。そして時間の使い方が変わってくれば「実際に何が得られるか」も変わってくる。
はず。



つまり、
人生、気の持ちようなんじゃないの?




・・・

そんじゃーね。