この前、尾崎豊のステージの様子を特集番組で見てたんだけどね。ビンビンと“怒り”が伝わってきたんだよね。ほとんど“怒り”が服着て唄ってます、みたいだった。
で、ああ、これって若いことの特権だよね、と思った。特権というか特徴というか。
どの時代でも、若い時って“怒り”に溢れている時代だと思う。大昔から、今までずっと同じだ。時にそれが革命(明治維新とか)という形になったり、学生運動の形になったり、親殺しになったり、自傷になったり、形を変えて現れる。
荒れる学校も、ひきこもりも、家庭内暴力も“いじめ”も、基本はそういう怒りの噴火口だと思う。
どうしようもないんだよね。理不尽な怒りをどう扱って良いか、その方法を知らないのだもの。自分の怒りでありながら、しかも、何に怒っているのかさえ、つきつめて考えればわからなくなる。そういう理不尽な怒りがある時期が、若いって時期なのだ。と思います。
別に大上段に構えなくても大半の人は経験があるんじゃあるまいか。何かにすんごい腹立たしいし、いらだつし、耐えられないし、どうしていいかわからなくて焦る。このまま何もできないままに人生が終わってしまいそうに思えるし、そんな人生には何の価値もないように思えるし。それでも自分にはなんの力も知識もなくて、だから何もできなくて・・
自分だけがそういう暗黒から逃れられないような、絶望感というかあほらしさというか。
怒りが深ければ深いほど、豊かな青春時代であると、そのただ中にいては思えるはずもない。
★★★
音楽や芸術にその怒りを表現できる人がいると(尾崎のように)、それに共感する人達がそこに集まってくる。いろんな形をとってそれは現れる。
なんだけど、なんで年をとるにつれ、その怒りがなくなるのか。
現実と理想の差は全く変わらない。それなのに、人は怒りを忘れる。怒りを感じなくなる。
いろんな理由がある。諦める。自分をいいくるめる。客観的にものを見るようになる。感情をコントロールするスキルがつく。いろいろ。
でも、基本的には怒り自体が少なくなると思うのよ。年をとると、怒らなくなる、と思う。
そしてね、年を取ると、“代わりに”感謝しはじめる。
いろんなことに。
すべてに。
★★★
ちきりんの仮説1:「怒り」と「感謝」の合計量は一生一定である。
ちきりんの仮説2:成長とは、加齢とは、老いるとは、大人になるとは、自分の中の“怒りを感謝で置き換えるプロセス”である。
怒りに充ちた青春時代を送ってました。ちきりんも。
とても懐かしいです。
とてもみすぼらしい、ガリガリの、世の中にひねくれた女の子でした。何に怒っているのかもわからなかった。でも、怒っていた。ちがうと思っていた。なんで皆怒らないのか、と憤っていた。
そして今は、
感謝に溢れるおばさんです。
なるほど、そーゆーことかよ!って
感じです。
わかります?
人間、感謝なんかし始めたら終わりってことです。感謝なんかし始めたら、もう何も成し遂げられない、ってことです。
若者よ、怒れ!
じゃね。