そして“巨大な政府”へ

民主党は、高校の実質無料化や医学部の大幅定員増など矢継ぎ早に新公約を打ち出している。対抗して自民党もなんやかんやと耳触りのよい政策を搾り出す。第三極とやらもおんなじだ。

このままでは8月末までには、教育機関は全部無料、医療も介護も大幅供給増(税金投入額アップ)、年金も生活保護も大盤振る舞い的な(それでいて税金は一切上げないと)、まるで「日本って産油国だっけ?」みたいな“ドでかい政府案”が出来上がるに違いない。


先日書いたように、民主党の公約は多岐にわたって矛盾に満ちている。なんでこんな支離滅裂な政策になっているかといえば、それはひとえに「田舎と都会の両方の票を得ないと政権がとれないから」だ。

自民党はこれまで「田舎的であるもの」の票だけで政権を維持してきた。“田舎的であるものに支えられた政府”とは、中央集権的な“大きな政府”であり、都会で集めた税金を、巨大な官僚機構を通して田舎に配分する、という仕組みそのものであった。

そして、その資金配分方法は“市場”ではなく、“政治家と官僚と一部の業者の恣意の手”に長く委ねられてきた。そこに生まれるものを人は“利権”と呼んできたわけだ。

たとえば、官僚は彼らのプライドをくすぐる“権力”と、その資金配分機関への天下りによる幾度もの退職金を手にし、政治家は当然のように見返りの献金を懐に納め、そして彼らに取り入る業界だけが、完全に内向きなまま世界から取り残されても、なんの問題もなく利益を確保できた。


ところが今、「田舎的であるもの」だけの票では政権が維持できなくなった。そのため民主党も自民党も、「都会的なるもの」からも票を得ようとしはじめた。もちろん一方では田舎的なるものからの票を維持しながら。


ところで、“票になる都会的なるもの”とは何か。

それは、生活に苦しむ母子家庭や高齢世帯などの貧困家庭であり、まともな仕事にありつけず将来の展望が描けないロスジェネであり、障害者や病気に苦しむ弱者たちのグループだ。

民主党がまずこの「都会的なるもの」に目をつけた。しかし彼らは(政権をとるためには)「田舎的なるもの」も捨てられない。だから先日書いたように、彼らの政策は矛盾に満ち満ちている。しかし民主党だけでもない。いまや、すべての政党が同じ道を我先にと行こうとしている。



この先にあるものは何か。


都会的なる弱者へのバラまきだ。
田舎的なるものへのバラまきに加えて、の。


そうして日本は“巨大な政府”の構築に向けて突っ走る。




なんでやねん


といいたいところだが、その理由は明白すぎる。



「小さい政府は票にならない」からだ。


それは普遍的な事実だ。あまりに論理的な帰結だ。


小さい政府は、誰にも利権を分配できない。小さい政府とはコントロールできる資金量が“小さい”政府、という意味だ。その定義からして、利権を生みにくい。

そして、利権を生みにくいということはすなわち、票にならないということなのだ。



小さな政府を支持する多くの人に聞いてみればよい。
あなたは一度でも誰かの選挙を手伝ったことがあるか?ポスターを貼ったり、街頭演説の旗を持って立っていたり、支持者へのお願いの電話を1時間かけ続けるという“お手伝い”をしたことがあるか?

あるわけない。なんのメリットもなくそんなことをする人はいない。


しかし現実には、街のあちこちの壁にポスターを張って回ってくれる人がおり、政党のチラシをいちいちマンションのポストに放り込んでくれる人がいて、毎朝、早朝から駅でマイクを握る候補者の横で“のぼり”をもって立ってくれる人までいる。その大半は“自発的に選挙を手伝ってくれる支持者”たちなのだ。


彼らはなんでそんな面倒な“支持”活動を熱心に行うのか?


“小さな政府支持者”などには想像できない“なにか”があるからだ。
そしてそれこそが“大きな政府”の意味なのだ。



「小さな政府は票を生まない。だから、私達が小さな政府を実現することは不可能である。」



という文章は、
論理的、
現実的、
政治的に、


正しいか?